「どんな場所でも」

教会の玄関には短い階段があります。ふと気が付くと、その階段の一番下の段と地面の隙間に凄い存在感を放っているものがあるのに目が留まりました。

暖かくなってくると、色々なところに雑草が生えてきます。アスファルトの道であっても、少しの隙間にある土から元気よく草が生えてくるのを目にすることもあると思います。

今回目に留まった教会の玄関先の階段と地面の間から顔を出していたのは、雑草ではなく、綺麗なお花でした。

あまりにも立派に咲いていたので、感動するほどでした。イエス様はこのように言われました。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」

(聖書 マタイによる福音書6:27∼31 新共同訳)

種を蒔いたわけでも、水や肥料をやったわけでもないのに、本当に少しの隙間に根を張り、立派に育っているお花の姿は凄い存在感でした。

そして、それを見る時に、その生命力にあふれる綺麗なお花を造られた神様の大きな御業を感じることができます。

神様は、どんな条件下にあってもこの綺麗なお花をさかせることができるお方です。それと同じように、私たちがどんなに罪の深さに苦しんでいたとしても、そこから救いだし、新しく造り変えてくださる偉大なお方です。

それが、私たちを造られた神様です。