祈りが聞かれたとき

「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」

(新約聖書 使徒言行録12:5 新共同訳)

初代教会に恐ろしい迫害の手が伸びていました。使徒ヤコブは剣で殺され、ペテロも投獄されました。人々は教会に集まり、ペテロのための必死の祈りがささげられていました。

ペテロがいよいよヘロデ王の前に引き出される前夜、神様は天使を遣わしてペテロを牢屋から救い出されました。祈りが聞かれたのです。自由の身となったペテロは、仲間たちが集まっていた家の戸を叩きました。その家の女中がペテロが牢屋から解放され、いま、戸の前に立っていることを祈っていた人々に告げました。それを聞いた彼らの反応はどのようなものだったでしょうか?

「人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言った』(同12:15)。

ペテロが守られるように、解放されるようにと心を合わせて祈っていながら、まさにその祈りが最高の形で聞かれたのに、その知らせを信じることができなかった人たち。そのニュースを伝えてくれた人に「あなたは気が変になっている」と言ってしまった人たち。彼らのその反応に、私は自分自身の不信仰を見せられる思いがします。信じて真剣に祈っているつもりなのに、その祈りに神様が応えて下さることをどれだけ本気で信じ切れているだろうか…?

神様を信じていながらも、目の前の状況の厳しさゆえに、心の中に疑いが入り込んでしまう弱さを私たちは持っています。幼い子どもが親の言葉や約束を全く疑わずに信じるように、私たちも神様への揺るぎない信頼を持って祈り続ける者となりたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20151010祈りが聞かれたとき