月別アーカイブ: 2019年6月

「壊れた測り」

方位磁針や温度計などはあまり所持したことがありませんでした。しかし、ここ最近、鍵と一緒にキーホルダーにつけて持ち歩くようになりました。

と言っても、持ち歩いていてもほとんど見ることもありませんでした。存在すら忘れていたある日、ふと気温が気になって温度計に目をやると、中身が大変なことになっていました。

温度を指すための針が、中心から外れて全く使い物にならない状態になってしまっていました。暑くなったり寒くなったりと、最近の激しい寒暖差に耐えかねて針がモゲてしまったのかなと心配しつつ、数ヶ月も経たずに壊れてしまった温度計を直そうと小一時間振り続けていました。

どんなに振っても、針が元の位置にスポッと収まることはなく、全く気温が測れないままキーホルダーにぶら下がっている毎日です。

「手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量りつくし 山々を秤にかけ 丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。」(聖書 イザヤ書40:12∼13 新共同訳)

私たちは自分の中に、自分基準の測りを持っています。何でもそれを基準に測ってしまいます。しかし聖書は、「その測りをもって何を正確に測ることができますか?」と問いかけています。

残念ながら、私たちの持つ自分基準の測りでは測れないものが沢山存在します。神様の造られたこの世界、そして聖書に示されている神様の愛。隣の人、そして自分のことすら正確に測ることはできません。

しかし、神様は全てをご存知で、全てを正確に測ってくださるお方です。神様の与えてくださった聖書は、壊れることのない基準です。定まらない私たちに、そのような基準が与えられているということは感謝なことですね。

「十字架のキリスト」

先日、友人の結婚式があり、招待を頂き参加させて頂きました。教会での挙式でしたが、いつも見慣れた教会が結婚式場に早変わりした姿を見ると、それだけで新鮮な気持ちにさせられます。

式の中でも驚いたのが、式中に歌う讃美歌でした。今までも何度か教会で行う結婚式には参加させて頂いたことがありましたが、やはり結婚式と言えば「いつくしみ深き」という印象がありました。

今回式の中で選ばれていた曲は、希望の讃美歌294番の「十字架の血潮もて」という讃美歌でした。

十字架の血潮もて我さえ贖い 神の子としたもう 恵みの主をほめん

ああ主は 十字架にかかりて 我を救いたもう 恵みの主をほめん

 

そして、式の後は会堂の中でそのままレセプションが行われました。披露宴となると、友人や職場の方のスピーチなどがあり、余興などで盛り上がるというプログラムが一般的ですが、今回のレセプションは、とても霊的な雰囲気のメッセージ性のあるプログラムで、イエス様を中

心とした讃美にあふれるプログラムでした。

この結婚式を通して、新郎新婦が大切にしているイエス様の十字架という信仰のメッセージを強く感じ取ることができる時間でした。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」コリントの信徒への手紙第一1:23

パウロさんは、いろいろな人たちに福音を宣べ伝えていました。その福音の中心は十字架につけられたキリストでした。私たちも、「折が良くても悪くても」(テモテⅡ4:2)十字架のキリストを宣べ伝える者として歩んでいきましょう。

「神様の手に乗って」

今週一週間、東京衛生病院の職員礼拝の時間に行われたチャペルウィークで御奉仕をさせて頂く機会が与えられました。

場所は、病院ではなく隣の天沼教会の会堂で行われました。毎日、お話の前に特別讃美歌があり、その讃美に耳を傾けながら静かに祈る時を持つことができました。

荻窪へは、八王子からではなく、前日に中野の実家に泊まり、空いている電車で向かうことにしました。そして、集会の後八王子に戻り、また夜9時過ぎに家を出て実家に向かうという、中野、荻窪、八王子を行き来しながらの一週間でした。

小学校の祈祷週に一週間通ったこともありましたが、私の中での祈祷週の一番の心配事は、「集会に間に合わなかったらどうしよう」というものでした。

今回も、毎日そんな心配をしながら「朝起られますように」、「電車が時間通り動いていますように」と祈りながら過ごしていました。

今週は、数日雨の日がありました。丁度移動する時間に土砂降りの雨が降っていることが多

く、着替えやらパソコンやらの荷物を抱えてびしょ濡れになりながらの移動は少し気分が落ち込むこともありました。

しかし、神様が一週間道を整えて下さり、歩むことができました。(と、言いたいところですが、これを書いている時点でまだあと一日残っているため、まだ気が抜けませんが。大丈夫と信じて!)

「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る。」

(詩篇91:11∼12 新共同訳)

 

「ピカピカ光る」

日曜日に、教会大掃除が行われました。床にあるものを大移動し、綺麗に掃除をした後にワックスをかけました。玄関はワックスを3度塗ったので、ピカピカに光っています。

こんなにピカピカに光るんだなと、しばらく見入ってしまいました。また、光を反射して教会の中も明るくなった気がします。

子どもの頃からよく耳にしていた「まもなくかなたの」という讃美歌があります。その中に、「銀のように光る」、「水晶より透き通る流れのそばで」という歌詞があります。

何も考えずに歌ってきましたが、今考えるとスゴイ綺麗な光景を歌っていたのだなと気が付かされます。

この讃美歌は、ロバート・ローリーさんという方がつくられた曲で、ヨハネの黙示録に描かれている新しいエルサレムの様子を歌った讃美歌です。

 

「都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。」(ヨハネの黙示録 21:11 新共同訳)

「天使はまた、神の小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の川をわたしに見せた。」(ヨハネの黙示録 22:1)

 

新しいエルサレムの光景は、今の私たちのもっている表現力と理解力では言い表せないくらいのものだったと思います。

そして、それらがピカピカに光っているその光の源はについて、このように書かれています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」(ヨハネの黙示録21:23)

電気に照らされてワックスがピカピカ光っている私たちの教会も、神様の御栄光によって世の光として光輝くものとして頂けますように祈っていきましょう。