「最初の犠牲」

神様がこの世界を造られた時、死も涙も苦しみもない完璧な世界でした。しかし、園の中央に置かれた「それを食べたら死んでしまうから、決して食べてはいけないよ」と言われた木の実を人間が口にしてしまった結果、それまで円満であった神様との関係に深い溝ができてしまいました。

神様の守りの中にいて、何不自由ない環境であったはずなのに、目の前に現れた蛇の語る「それを食べても死ぬことはないよ。むしろ、食べれば神様のようになれるのだから」という言葉に魅力を感じ、気持ちがそれていってしまいました。

しかし、その甘い言葉にのせられた結果、待っていたのは厳しい現実でした。今まで神様のもとで守られていた生活が一変、神様から離れた結果、苦しみや悲しみ、争いや妬み、そして、死というものを抱えて生きていかなければならなくなってしまいました。それが罪のもたらしたものでした。

アダムとエバは、この事態を何とかしなければという一心で、自分たちの中にある罪を隠すかのように、いちじくの葉っぱで裸を覆いました。

しかし、どんなに隠そうとしても、神様の目を欺くことはできません。たとえ、いちじくの葉で覆ったとしても、それはいつか朽ちてしまいます。同じように、何とかして自分のしてしまったことを隠そうとしても、いつかは露わになってしまいます。

そこで、神様は、自分から離れていった人間に驚きのプレゼントをされました。

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(聖書 創世記3:21 新共同訳)

神様は、「あなたたちが自分で用意したものでは、問題を覆うことはできない。だから、これを着なさい。」そう言って動物の皮で作った衣を着せられました。

世界が造られて、初めて血が流され、命が失われた瞬間でした。この犠牲こそが、私たち一人一人を罪から救うものであると神様は言われます。これが、イエス・キリストの十字架の死を指し示すための最初の犠牲でした。

「New」

聖書の中で、キリストはこのように言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(聖書 ヨハネによる福音書3:3 新共同訳)

これは、ニコデモという当時の議員さんに対して言われた言葉です。ニコデモさんは、聖書に詳しい人物でしたが、キリストの言うこの言葉の意味がわかりませんでした。

ニコデモさんは、社会的な地位があり、自分は沢山善行をしているし、皆から尊敬されていると自負していました。それなのに、何故そんな自分が新たに生まれる必要があるのだろうかと疑問に思ったからです。

そこで彼は、もういい大人である自分がどうやったら母親のお腹に入ってもう一度生まれるなどということができるのですかと聞き返しました。

そこでキリストはこのように答えられました。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(聖書 ヨハネによる福音書3:5 新共同訳)

新たに生まれるというのは、母親のお腹に戻ってもう一度出てくることではなく、「水と霊」によって生まれることであると言われました。これが、バプテスマです。

バプテスマは、水の中に沈むことで罪の人生に死にます。そして、水から起き上がることで新しい歩みを始めます。その新しい歩みとは、十字架で私たちの罪のために死なれたキリスト、また、私たちが死に勝利するために墓から復活されたキリストと共に歩む人生です。そして、聖霊によって私たちの心が新たにされる時、文字通り、新しく生まれることができます。

既に新たに生まれた方は、日々新たにされましょう。そして、まだの方は、是非新たに生まれてみませんか?

「色々な種類」

大きな池のある公園に行きますと、アヒルさんボートを目にします。皆様も一度は乗ったことがあるかもしれません。私も小さい頃に乗ったことを覚えています。

静岡県藤枝市に蓮華寺池公園という公園があります。蓮華寺は名前の通り、蓮華が有名な公園です。

中心になる大きな池で沢山の蓮華を見ることができます。ここは幼い頃に何度も遊びに行った公園ですが、数年前久々に足を運び、あることに気が付きました。

それは、ボート乗り場にあるのがアヒルさんボートだけではなかったということです。

アヒルさんかと思いきや、パンダさんボートやコアラさんボートなど色々な種類のボートが浮かんでいました。パンダ好きにとっては心ひかれる瞬間でした。

「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。/一人一人に、“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(聖書 コリントの信徒への手紙一12:4、7)

聖書には、キリストを信じる人たちに対して聖霊によって賜物が与えられると書かれています。

預言をする賜物、病気をいやす賜物、奇跡を行う賜物、教える賜物など色々な賜物があります。

色々な賜物があるのは、教会が神様の働きをしてく上で、それぞれの賜物が「全体の益となるため」です。

そして、大事なのは、どの賜物も「それをお与えになるのは同じ霊」であるということです。

私たちにはどんな賜物が与えられているでしょうか。聖霊を求める祈りと共に、自分に与えられている賜物について瞑想してみましょう。神様は私たちがその賜物を喜んで神様のために活かしていくことを望んでおられます。

「目標を目指して」

新年明けましておめでとうございます。2020年がスタート致しました。今年もよろしくお願い致します。

元旦に初日の出を御覧になった方もおられると思います。私は毎年朝早く起きられず、日が昇ってしまっているというのが毎年恒例でした。今年も、そんな毎年恒例の元旦でした。

そんな中、真夜中に高尾山に登り、5時間も粘って高尾山からの初日の出をカメラに収めた青年がいました。

その頑張りの結果撮影された高尾山からの初日の出の写真を是非載せさせてほしいとお願いしましたところ、快く許可を頂きましたので、掲載いたします。

「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(聖書 フィリピの信徒への手紙3:13∼14 新共同訳)

聖書は、目標を目指してひたすら走るようにと言っています。キリストを救い主として信じる私たちは、天からイエス様が私たちを迎えるためにもう一度戻って来られるのを待っています。

その時に私たちは今の苦しみや困難とは比べものにならないような素敵な賞を頂くことができます。今年もしっかりとその目標を目指してひたすら走って行きましょう。

年が明け、キリストの再臨の日がまた近づきました。この素晴らしい目標をまだ御存知ない方とも共有し、御一緒に賞を頂きましょう。

「取り除く」

クリスマスが終ると、巷はお正月の準備モードです。家の大掃除はもう終わられたでしょうか。

中には、一年間ため込んでしまった汚れと格闘された方もおられるかもしれません。聖書の中に、“あるもの”が沢山溜まってしまった場所を綺麗にする大事な作業があるということが記されています。

 「こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。」(聖書 レビ記16:16 新共同訳)

“あるもの”とは、人間の“罪”でした。昔、聖所という場所で人間の罪の身代わりとして動物の血が流れていました。人間の罪を動物に(象徴的に)移し、罪を移された動物が血を流し、その流れた血を聖所という聖なる空間のなかへと運んでいきました。

これによって、動物に身代わりとなってもらった人の罪は、聖所の中に溜まっていきました。

しかし、忘れてはならないのは、まだそれが溜まったままだということです。溜まったものを取り除かなければ汚いままです。そのために大祭司と呼ばれる人が溜まったものを取り除く作業を行います。

これは、旧約聖書に書かれていることですが、私たちの罪も同じように天の聖所に溜まっています。今現在、それを綺麗にする作業が天において行われています。私たちの救い主イエス様が、今度は天の聖所の大祭司として働いてくださっています。

この働きにより、イエス様の十字架の救いを受け入れた人たちの罪は、きれいに取り除かれます。イエス様は、年末年始問わず、常に私たちのために働いていてくださるお方です。