「思い続ける」

三育学院大学の看護宣誓式が行われました。宣誓式は、学生たちが病院の現場に出ての実習に入っていくにあたり、宣誓を行う式です。私は、三育学院大学の東京校舎でチャプレン(学校付牧師)として御奉仕させて頂いていることもあり、少しではありますが宣誓式のお手伝いをさせて頂く機会が与えられました。

三育学院で神学生だったころにも毎年看護宣誓式が行われていましたが

、準備の段階から関わることができたのは初めてのことでした。そして、リハーサルから本番まですぐ近くでこの式を見ることができました。

 練習の中で、ある先生が宣誓式とはどのような式なのかというお話をされていました。本来、自分の心の中で決心をすればそれですむものをわざわざ式という形で行うのは、これからの歩みにおいて様々なことがある中で、宣誓をしたということに立ち帰ることで仕切り直しをすることができるためだ、ということを話しておられました。

原点回帰をするということはとても大切なことなのだなと改めて考えさせられました。

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」(聖書 テモテへの手紙二2:8∼9 新共同訳)

パウロさんは、福音を宣べ伝える者として生きるがゆえに、鎖につながれるような人生を送ります。しかし彼は、そんな時こそイエス・キリストのことを思い起こすようにと言っています。この「思い起こす」という言葉は、「いつも思っていなさい」という言葉にも訳されています。聖書は、人生の中でどんな時にあっても、いつもイエス・キリストを思い続けるようにと言っています。

「流れ出る水」

雨が降った後に大きな池を訪れた時のことです。池の中の水はとても濁っていました。恐らくいつもはとても綺麗な池だったのではないかと思います。

池の周りは散歩コースになっており、いくつかのコースを選びながら池の周りを一周することができるようになっていました。

綺麗な池を見ながら自然の中を散策できると楽しみにしていましたが、池は諦めて周りの自然を見ながら散歩を始めました。

池を周ると言っても、小高い丘を登り降りするような道を行くため、中々歩き甲斐のあるコースです。

その道の途中、水の流れる音が聞こえてきました。木の板一枚くらいの小さな橋がかけられている下を、池から流れて来た水が通っていました。

驚いたのは、あの濁っていた池の水が、一度流れ出すととても綺麗な水となって流れていたことでした。

「イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」」(聖書 ヨハネによる福音書7:37∼38 新共同訳)

イエス様は、私たちに御自分のもとへ来て飲みなさいと言われます。イエス様から飲んだ人は、自分の中にはなかったはずの「生きた水」が流れ出てくると言われました。きっと、その流れ出る水は、おどろくほどに澄んだ綺麗な水なのではないかと思います。私たちもイエス様のもとへ行き、生命の水を飲みましょう。

「道を備える」

一週間雨の予報が出ていた中でしたが、夏に行われる小中学生対象のビーバップキャンプの準備のために長野県にある野尻湖へ行って来ました。

一日目は、キャンプで行うプログラムの下見をするために、黒姫高原や苗名滝など自然豊かな場所を回りました。

そして、2日目がメインイベントのキャンプ場の草刈りです。いつもキャンプ本番ばかり参加していたため全く気が付きませんでしたが、キャンプ前にはこんなに草が伸び放題の状態になっていたということにビックリでした。

歩く道もないほどの伸びきった雑草が広がるキャンプ場の草刈りが始まりました。「まずは、キャビンまでの道をつくろう」ということで、数棟あるキャビンを行き来することができるように道をつくっていきました。そして、真ん中に広がる広場を一気に刈り込み、湖までの道を整えて何とかいつも見慣れた景色にまで整備することができました。

刈った草は大量に残っていましたが、タイムリミットが来たため、教団管財課の方々にバトンタッチして帰路につきました。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(聖書 イザヤ書40:3 新共同訳)

主のために道を備える。この聖書の言葉を引用しながら実際に主の道を備えていったのがバプテスマのヨハネさんです。イエス様が来られるために、そしてみんながイエス様を受け入れることができるように「道を備える」メッセージを伝えて働いていました。

この夏に行われるキャンプで、子どもたちがイエス様との出会いを体験することができますようにと祈りながらの「道を備える」草刈りワークキャンプでした。

 

「壊れた測り」

方位磁針や温度計などはあまり所持したことがありませんでした。しかし、ここ最近、鍵と一緒にキーホルダーにつけて持ち歩くようになりました。

と言っても、持ち歩いていてもほとんど見ることもありませんでした。存在すら忘れていたある日、ふと気温が気になって温度計に目をやると、中身が大変なことになっていました。

温度を指すための針が、中心から外れて全く使い物にならない状態になってしまっていました。暑くなったり寒くなったりと、最近の激しい寒暖差に耐えかねて針がモゲてしまったのかなと心配しつつ、数ヶ月も経たずに壊れてしまった温度計を直そうと小一時間振り続けていました。

どんなに振っても、針が元の位置にスポッと収まることはなく、全く気温が測れないままキーホルダーにぶら下がっている毎日です。

「手のひらにすくって海を量り 手の幅をもって天を測る者があろうか。地の塵を升で量りつくし 山々を秤にかけ 丘を天秤にかける者があろうか。主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。」(聖書 イザヤ書40:12∼13 新共同訳)

私たちは自分の中に、自分基準の測りを持っています。何でもそれを基準に測ってしまいます。しかし聖書は、「その測りをもって何を正確に測ることができますか?」と問いかけています。

残念ながら、私たちの持つ自分基準の測りでは測れないものが沢山存在します。神様の造られたこの世界、そして聖書に示されている神様の愛。隣の人、そして自分のことすら正確に測ることはできません。

しかし、神様は全てをご存知で、全てを正確に測ってくださるお方です。神様の与えてくださった聖書は、壊れることのない基準です。定まらない私たちに、そのような基準が与えられているということは感謝なことですね。

「十字架のキリスト」

先日、友人の結婚式があり、招待を頂き参加させて頂きました。教会での挙式でしたが、いつも見慣れた教会が結婚式場に早変わりした姿を見ると、それだけで新鮮な気持ちにさせられます。

式の中でも驚いたのが、式中に歌う讃美歌でした。今までも何度か教会で行う結婚式には参加させて頂いたことがありましたが、やはり結婚式と言えば「いつくしみ深き」という印象がありました。

今回式の中で選ばれていた曲は、希望の讃美歌294番の「十字架の血潮もて」という讃美歌でした。

十字架の血潮もて我さえ贖い 神の子としたもう 恵みの主をほめん

ああ主は 十字架にかかりて 我を救いたもう 恵みの主をほめん

 

そして、式の後は会堂の中でそのままレセプションが行われました。披露宴となると、友人や職場の方のスピーチなどがあり、余興などで盛り上がるというプログラムが一般的ですが、今回のレセプションは、とても霊的な雰囲気のメッセージ性のあるプログラムで、イエス様を中

心とした讃美にあふれるプログラムでした。

この結婚式を通して、新郎新婦が大切にしているイエス様の十字架という信仰のメッセージを強く感じ取ることができる時間でした。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」コリントの信徒への手紙第一1:23

パウロさんは、いろいろな人たちに福音を宣べ伝えていました。その福音の中心は十字架につけられたキリストでした。私たちも、「折が良くても悪くても」(テモテⅡ4:2)十字架のキリストを宣べ伝える者として歩んでいきましょう。