月別アーカイブ: 2019年11月

「キリストに結ばれた歩み」

クリスチャンという言葉は、イエス・キリストが十字架の死から復活し、天に上げられた後に誕生した呼称です。

イエス様のお弟子さんたちが、「十字架で死なれ、復活されたイエスこそキリスト、つまり救い主である」というメッセージを伝えてまわりました。

周囲の人たちから見ると、いつも「キリスト、キリスト」と言ってる不思議な集団だったと思います。

そんな「キリスト、キリスト」と言って、いつもキリストのことばかり語っていた人たちに対してつけられたのが「クリスチャン」というあだ名でした。

「このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。」(聖書 使徒行伝11:26 口語訳)

このあだ名は、キリストを信じる人たちにとっては光栄なものだったことと思います。このクリスチャンという呼び方は、自称したのではなく、周りからそのように呼ばれるようになったものでした。それは、ただ彼らが「キリスト」を語っていただけではなく、その生き方を通してキリストを語っていたからこそつけられたあだ名でした。

つまり、周囲の人々も認めるクリスチャンだったわけです。聖書は次のように言いまます。

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」(聖書 コロサイの信徒への手紙2:6 新共同訳)

キリストに結ばれた歩みは、私たちの思いをはるかに超えた歩みです。その生活は、「私」ではなく「キリスト」が中心となる歩みです。

 

「してはいけない理由」

神様が世界を造られた時、人間が食べるための実をもたらす木を沢山用意されました。そんな中、人間の住む園の真ん中に2本の特別な木を置かれました。

「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」(聖書 創世記2:9 新共同訳)

その特別な2本の木の正体は、「命の木」と「善悪の知識の木」という名前が付けられた木でした。何故、特別だったかというと、神様があるルールを設けられたからです。

「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」」(聖書 創世記2:16∼17 新共同訳)

「善悪の知識の木」になる実は食べてはいけないというルールでした。「○○してはいけない」と言われると、なんだか気になります。「これを食べたら絶対太るよ」と言われ、わかっていても「今日くらいはいいだろう」とついつい食べてしまうことがよくあります。

しかし、このルールはとても大切なものでした。何故かというと、食べたら太る痩せるの話ではなく、人間の「命」にかかわることだったからです。そこには、神様の「死なないでほしい」という強い思いが込められていました。

さて、この「決して食べてはならない」というルール。人間は守ることができたのでしょうか。そして、皆さんは守ることができるでしょうか?

「してはいけない」に目を向けるのではなく、神様の「愛」に目を向けてみましょう。

「朽ちない蓄え」

寒い季節になりました。暖房器具を使う機会が増えてきました。私は湯たんぽと灯油ファンヒーターを愛用しています。

寝る前に布団の中に湯たんぽを入れておくと、足元がポカポカしたまま眠ることができて快適です。

しかし、湯たんぽも灯油ストーブも中身が切れてしまうと力が発揮できません。特に、いざというとき灯油ファンヒーターの灯油が切れていることがあると、一瞬思考が停止するくらい気持ちが落ち込みます。

こまめに中身をチェックしながら継ぎ足しをし、ポリタンクの中身も尽きてしまわないように気を付けないといけません。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(聖書 ペトロの手紙一Ⅰ:3∼4 新共同訳)

神様が私たちに与えようとしてくださるものは、「朽ちず、汚れず、しぼまない」ものです。この世が与えてくれるものは、どんなにポカポカ暖かいものであっても、いつか無くなってしまいます。

しかし、神様は、いつも朽ちることのないものを与えようとしてくださっています。朽ちないものを受け継ぐ時、私たちが落胆することはなくなります。

 

「溢れる恵み」

夏のVBS(夏季聖書学校)で昼食時に出すためのポップコーン作りを担当したことがありました。

他にもスイカやかき氷、流しそうめんなど、見るにも楽しく、食べても美味しいものが沢山ありました。

沢山の子どもたちが参加してくれていたため、頑張って大量のポップコーンを作りました。しかし、作りすぎてしまったせいか、大きなお鍋いっぱいに溢れかえってしまいました。お鍋を持ってポップコーンを配り歩きましたが、それでもまだまだ無くならない量のポップコーンでした。

「いかに幸いなことでしょう あなたに選ばれ、近づけられ あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によってわたしたちが満ち足りますように。」(聖書 詩篇65:5 新共同訳)

神様は、私たちに溢れるほどの恵みを与えたいと思っておられます。私たちは中々それに気が付かなかったり、素直に受け取ることができなかったりすることもあります。しかし、聖書はこう言います。

 「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。」(聖書 詩篇65:4 新共同訳)

神様のもとには、私たち一人一人を満たしてくださる恵みが溢れ出ています。罪という重荷に苦しむ私たちが、それを贖ってくださった十字架の出来事に目を向ける時、その溢れる恵みを知ることができます。

私たちがその神様の思いを知り、神様のもとに引き寄せて頂くことで、恵みの大きさ、またその多さを感じることができるでしょう。

 

「放ってはおけない」

数年前のことです。「焚火で焼き芋」にハマり、夜な夜な真っ暗な中で焚火をし、畑で獲れたてのサツマイモをアルミでくるんで放り込むというのが一日の終わりの楽しみでした。

最初は、どのくらい火の中に入れておけばよいのかわからず、出してみたら半生だったということもありました。しかし、「放っておいて丸焦げになってしまった」という残念なことにだけはならないようにと、随時木の棒でツンツンしながら焼けるのを待っていました。

寒空の中で食べるホクホクの焼き芋は格別です。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(聖書 ヨハネの手紙一3:16 新共同訳)

私たちを造った神様は、造ったまま放っておく神様ではありません。「わたしが担い、背負い、救い出す」(聖書 イザヤ書46:4 新共同訳)と言われる神様です。

神様は、今も私たちに大きな関心を持って関わって下さっています。私たちは、生活の中で中々それを感じることができないこともあります。特に、苦しみや悲しみに襲われた時はそうかもしれません。

しかし、神様は私たちに大きな関心を持っているということを“驚くべき方法”で示されました。それが、“十字架の死”でした。

「命を捨てるほどに、わたしはあなたを愛している」。私たちを造った神様は、そう言われます。

十字架に磔にされたイエス・キリストを上げてみてください。そこには、私たちを造った神様の愛が溢れ出ています。

神様は、決して私たちを放ってはおかれません。