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「戦利品の放棄」

それぞれの家族の数が増えたため、甥のロトさんと別々の場所に住むことにしたアブラハムさんのもとに、甥のロトさんが住む町が敵に攻め込まれたという知らせが舞い込みました。そして、ロトさんも家族や財産と共に連れ去られてしまったとのことでした。

そこで、アブラハムさんは何とかしてロトさんとその家族、そして彼の財産を取り返すために立ち上がりました。

神様の導きのもと、見事全てを取り返すことができました。別の言い方をすれば、アブラハムさんはロトさんを連れ去った敵に勝利を収めたわけです。当時は、勝利者は、そのあかつきとして、負けた国の財産を戦利品としてもらうことができました。

きっと、かなり莫大な戦利品だったことと思います。しかし、アブラハムさんは、彼の勝利を喜んだロトさんが暮らしていた町の王様に対し、このように言いまいした。

「アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』とあなたに言われたくありません。」

(聖書 創世記14:22∼23 新共同訳)

アブラハムさんは、莫大な戦利品というものに心惹かれることはありませんでした。何故なら、それが目当てではなかったからです。彼の目的は、ロトさんを助けるということでした。お金のためではなく、人のために仕える。アブラハムさんを通して「誠実さ」ということを学ぶことができる出来事でした。

「譲る」

ケーキを切り分けたくない理由を挙げるとするならば、上手く等分できなかったらどうしようという心配があるからです。または、形を崩してしまったらどうしようという心配もあります。

しかし、小さい頃思っていたケーキを切りたくない理由はもっと別の理由でした。ケーキを切り分けた人は最初にケーキを選べないというルールを知っていたからです。

確かに、ケーキを切った人が最初に選ぶとなると、等分にはせず、こっそり一つだけ大きく切り分けておくなんてこともあり得るからです。私も隙あらばそうしようと狙っていた時期がありました。

神様に「行きなさい」と言われたアブラハムさんは、甥のロトさんと一緒に旅をしていました。しかし、二人旅というわけではありません。それぞれに家族がいましたし、仕えていた人たちもいました。そして、それぞれに財産も持っていました。

この大きな遊牧民が1つの場所に滞在し、家族や財産が増していくと共存することが難しい問題が生じてきてしまいます。

そこで、年上のアブラハムさんからロトさんに対してこのように提案をしました。

「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(聖書 創世記13:9 新共同訳)

普通なら、土地の奪い合いになってもおかしくありません。しかし、アブラハムさんは、年上だから従えというわけでもなく、あなたが選んでいいよと年下のロトさんに選ぶ権利を譲ったのでした。

執着せずに与える心を持つことができるのはとても素敵なことですね。

「導かれるままに」

皆で散歩をしに行くということで、行き先もわからないまま前を行く人たちについて行きました。

公園らしき敷地に入り、しばらく歩くと階段を登り始めました。そのままついて登って行くと、今度は山道に入って行きました。

散歩ということで、気を抜いていましたが、結局汗だくになりながら中々登りごたえのある山道を頂上を目指して歩いているんだということに気が付きました。

頂上に辿り着いた時には、疲労感で一杯でしたが、そこから見る景色はとてもきれいなものでした。

散歩であれば、道も行き先も知らずに出発することに何の抵抗もありませんでした。しかし、人生はどうでしょうか。

聖書の中で有名な人物アブラハムさんは、ある日神様からこのように言われました。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように、あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(聖書 創世記12:1∼3 新共同訳)

神様は、道も行き先も言わず「わたしの示す地に行きなさい」と言われただけでした。アブラハムさんは70歳を過ぎていましたが、神様の「行きなさい」という言葉に従って住み慣れた土地を後にしました。

神様は、私たちにも「行きなさい」と言われる時があります。それは年齢がいくつであっても関係ありません。今日、その声がかかるかもしれません。アブラハムさんのように、その神様の言葉に従って旅立つ時、神様はその先に大きな祝福を用意して待っていてくださいます。

「大争闘の中の愛」

「大争闘」という言葉があります。争い、闘いという意味ですが、ここに「大」という字がつきますので、ただの争闘ではなく、大きな争闘というわけです。

この大争闘は、聖書を通してその戦いの歴史を見ることができます。では、一体どのような戦いなのでしょうか。聖書は次のように言います。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(聖書 エフェソの信徒への手紙6:12

この大争闘は、目に見える相手と直接戦うものではなく、「支配と権威」に関わるものであると言われています。


この世界は、神様が造り、統治しておられました。しかし、その神様の統治に対して不満を抱き、自分こそが世界を支配する権威があると主張して反旗を翻した存在がいました。それが、暗闇の世界の支配者でした。

その支配者は、悪の諸霊とともに神様と神様の統治を望む者たちに戦いを挑みました。その戦いこそが、大争闘と呼ばれる戦いの始まりでした。

この戦いは、神様の支配と権威、または、暗闇の世界の支配者の支配と権威のどちらを認めるのかということが大きな争点となってきます。そして、聖書は、わたしたちもその大争闘の中にいるんだと教えてくれています。

そこで、神様は聖書を通して「わたしのもとに来なさい」といつも語りかけてくださっています。神様は私たち一人一人に、信頼して従って来てほしいと心から望んでおられます。

そのために、神様はイエス・キリストという大事な独り子の十字架の死という出来事を通して、私たちが心から信頼して従って行くことができるようにと真実の愛を示されました。

私たちを造り、愛して下さる神様は、今日も私たち一人一人を招いてくださっています。