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「身を明かす」

窃盗容疑をかけられた一番下の弟をかばうため、また、故郷で待つ父を悲しませないため、自分が犠牲になると申し出たユダさんの姿勢を見て、ついにヨセフさんは感情を押させることができなくなりました。

ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。 (聖書 創世記 45:12 新共同訳)

 今まで通訳付きで会話をしていた異国の偉い人が、いきなり自分たちの母国語で話し出したかと思えば、自分はあなたたちの兄弟ヨセフであるとカミングアウトをしたのでした。

 予想もしなかった展開に、兄弟たちは言葉がでませんでした。しかし、もしあのヨセフさんであったとしても、きっと自分たちに恨みを持っているに違いない。そう思ったことと思います。

 そんな不安を取り除くために、ヨセフさんはこんな言葉をかけました。

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。

(聖書 創世記 45:4-8 新共同訳)

 「自分がここにいるのは、あなたたちが売り飛ばしたせいだ」と言って、責めることもできました。しかし、ヨセフさんはそうは思っていませんでした。「自分がここにいるのは、あなたたちのせいだと思ってはいません。そうではなく、神様の導きだったんです」。これが、エジプトの地で様々な経験を通して神様に成長させてもらったヨセフさんの持っていた信仰でした。

 そして、「今自分がこの場所にいるのは、兄さんたちを含め、故郷で待つ家族がこの飢饉の時にあっても養われるためだったんだ。」

 この言葉に、兄弟たちは本当に救われたことと思います。

「身代わり」

 エジプトからの帰り道、突然呼び止められ、全く身に覚えのない窃盗容疑をかけられた兄弟たちは、身の潔白を主張しつつ荷物の中身を提示することになりました。

 執事が年上の者から念入りに調べ始め、いちばん最後に年下の者になったとき、ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった。 (創世記 44:12新共同訳)

 末の弟ベニヤミンとは、父が愛してやまない存在であり、絶対に危険にさらすことなく連れて帰ると約束をしてエジプトに連れてきたという経緯がありました。

 そこで、兄のユダさんが口を開きました。

ユダが答えた。「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(創世記 44:16新共同訳)

 全員で奴隷になります。これがユダさんの嘆願でした。しかし、その願いも空しくヨセフさんからこんな言葉が返ってきます。

ヨセフは言った。「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」

(創世記 44:17新共同訳)

 実は、これがヨセフさんが最後に仕掛けた兄たちへのテストでした。そして、その最後の難題でした。

 末の弟だけを残し、後は家に帰るように。父との約束がある手前、そんなことはできません。そして、ユダさんは長い嘆願の言葉を述べ、最後にこう願い出ました。

実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。(創世記 44:3233 新共同訳)

 この子の代わりに自分が奴隷となる。そして、この子は父のもとへ返してほしい。これがユダさんの最後の願いでした。本当に弟のことを愛していなければこんな申し出をすることはできないのではないかと思います。

 イエス・キリストは、私たちの代わりに十字架でその罪を負ってくださいました。それは、私たちが罪の奴隷から解放され、父なる神様のもとへ帰ることができるようにするためです。

「寝耳に水」

エジプトの地で、正体を知らないながらも楽しい食事の時間を過ごした兄弟たちは、食料を沢山詰め込んで帰路につきました。

 1度目に来た時は、スパイ扱いをされ、兄弟を人質にとられ、更には、大事な弟を身代金として連れて来なければならない。そして、荷物の中には支払ったはずの銀が入れられていた。理解に苦しむ様々な状況にあっても、誠実に対応し、最後は晴れ晴れした気持ちでエジプトを後にしました。

 そんな解放感あふれる帰り道、彼らはエジプトから追いかけて来た使者にこのような弁明の言葉を言うことになってしまいました。

すると、彼らは言った。「御主人様、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか。僕どもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。袋の口で見つけた銀でさえ、わたしどもはカナンの地から持ち帰って、御主人様にお返ししたではありませんか。そのわたしどもがどうして、あなたの御主君のお屋敷から銀や金を盗んだりするでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります。」

(聖書 創世記 44:79 新共同訳)

またもや、自分たちには全く身に覚えのない、まさに寝耳に水というようなことが起こっていたのでした。

 ついさっきまで自分たちをもてなしてくれていたあのエジプトの偉い人物がとても大切にしていたマイカップを盗んだという容疑がかけられていたのでした。これは、ただのお気に入りの杯ではありません。エジプトでは、これをもって占いを行ったり、毒殺を防ぐためにこのカップでそれを見分けたりするというようなかなり貴重なものだったようです。

 しかし、実はこれもヨセフさんが仕組んだ計画でした。

 ヨセフは執事に命じた。「あの人たちの袋を、運べるかぎり多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋の口のところへ入れておけ。それから、わたしの杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れておきなさい。」執事はヨセフが命じたとおりにした。 (聖書 創世記 44:12新共同訳)

 ヨセフさんは、兄弟が全て揃ったところで、最後に兄たちを試すための計画をたてて実行に移したのでした。この杯が発見された時、兄たちはどうするのか。ヨセフさんはそれを見ようとしていたのでした。

 まだ、兄弟たちは本当に杯が自分たちの誰かが所持しているとは思っていません。そんなことがあるはずがない。もしそうなら死罪にでも奴隷にでもなります。そう言って身の潔白を主張したのでした。

「優遇されたとしても」

突然ヨセフさんの屋敷へと連れて来られた兄弟たちは、奴隷にするためではなく、純粋に食事に招待をされたということを知り、その時を待ちました。

 ヨセフさんが帰宅すると、兄弟たちは持ってきた贈り物とともにヨセフさんに最大の敬意をあらわしました。

 ヨセフさんは、兄たちが約束通り末の弟ベニヤミンを連れて来たことを確認しました。

ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた。(聖書 創世記 43:30 新共同訳)

 ヨセフさんが兄弟たちの前で泣きそうになり、隠れて泣いたのは2度目でした。1度目は、最初に兄弟たちがエジプトにやってきた際、自分に対してどのような思いを抱いているのかを知った時でした。

 今回は、長らく会っていなかった実の弟の姿を見ることができたことへの感動での涙でした。

 しかし、ここで取り乱してしまっては、ヨセフさんの計画が狂ってしまいます。まだ、自分の正体は明かさず、気を取り直して食事の時間を始めました。

兄弟たちは、いちばん上の兄から末の弟まで、ヨセフに向かって年齢順に座らされたので、驚いて互いに顔を見合わせた。そして、料理がヨセフの前からみんなのところへ配られたが、ベニヤミンの分はほかのだれの分より五倍も多かった。一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ。(聖書 創世記 43:3334 新共同訳)

兄弟たちは、何故エジプトの偉い人物が自分たち兄弟の年の順番を知っているのだろうかと驚きました。勿論、それを理由に「もしかしたらヨセフではないだろうか?」と疑うことはありませんでした。ただただ驚いたことと思います。

また、末のベニヤミンさんには他の兄弟よりも多くのものを提供しました。エジプトの文化では、その席にいる一番上の位のゲストに対して最上のもてなしをするというものがあったそうです。つまり、このゲストの中で、一番末の弟が誰よりも大事なゲストとして扱われたのでした。

昔の兄たちは、末の弟が誰よりも優遇されるのを見て殺意を覚えていました。ヨセフさんは、そのような意味でも、末の弟を誰よりも優遇し、兄たちの心がどのように変わったのかを見ていたのかもしれません。

しかし、結果はみんなで楽しい食事の時間を過ごすことができたということでした。そこにいた全員の心に互いを愛し大切にするという思いがあったからこその楽しい時間だったのではないでしょうか。