「穴からの救出」

 

父のおつかいで、兄たちの安否を確かめるために長旅を続けてきたヨセフさんは、ついに遠くの方に兄たちの姿を見つけることができました。

普通の兄弟であれば、長旅に対する労いの時を過ごすことと思いますが、この家族においてはそうはいきませんでした。

父親の偏った愛を受けている憎き弟の姿を見つけた兄たちは、恐ろしくも悲しい考えを抱くことになりました。

「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。』」(聖書 創世記37:18∼20 新共同訳)

父のもとから遠く離れた地において、弟の命を奪ってしまおう。しかも、長旅の中で獣に襲われたと言えば父親も不思議に思うことはない。兄たちは弟を憎むあまりそんな恐ろしい計画を相談し合ったのでした。

そんな中で、唯一長男のルベンさんだけは反対の意を示しました。そこでヨセフさんは、まず水が空になっていた貯水穴に投げ入れられました。ルベンさんは後でこっそり助け出そうと考えていたようでした。

すると、次に兄弟のユダさんが新たな提案をしました。

「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」(聖書 創世記37:26 新共同訳)

そして、兄弟たちはヨセフさんを穴から引き上げて奴隷商人へと売り飛ばしてしまったのでした。奴隷になることは、死ぬよりも恐ろしいと思われていたようです。どうやらこの時ルベンさんは席を外していたようで、それを止めることができませんでした。

しかし、この奴隷商人が通りかかったことによって、ヨセフさんは命が助かったのでした。人間的に見れば、恐ろしい道へ足を踏み入れたように見えますが、これもヨセフさんを導く神様の大きな計画の中にあることでした。神様がヨセフさんを通して示された「夢」は、未来を預言しているものでした。神様の預言は、人間の力によって頓挫することはありません。

 

「おつかい」

父親から特別扱いを受けていた上に、頭にくるような夢の話をしている弟ヨセフに対して、大きな怒りと憎しみを抱いていた兄たちは、羊の群れを率いて仕事にでかけていきました。

働くために羊を連れて出かけて行った息子たちに対して、父ヤコブさんは不安をかかえていました。

それは、以前息子たちが妹が辱めにあった時、多くの人を虐殺するという大惨事を起こしたという過去があったからでした。

そんな不安を安心に変えようと、大事な息子ヨセフさんをおつかいにやることにしました。

「『兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが。』『はい、分かりました』とヨセフが答えると、更にこう言った。『では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか。』父はヨセフをヘブロンの谷から送り出した。」(聖書 創世記37:13∼14 新共同訳)

父ヤコブさんは、これで一安心と思ったことと思います。しかし、彼は大事なことに気が付いていませんでした。それは、自分のえこひいきのせいでヨセフさんが兄弟たちから憎まれていたということでした。

もし、それに気が付いていたら、大事な息子を兄たちのもとにおつかいにやることはなかったかもしれません。ヤコブさんは、今一番危険な場所へと大事な息子を遣わしたのでした。

神様も、大事な独り子を私たちのためにこの世に送ってくださいました。そこは、罪の支配の中にある危険な暗闇でした。そして、そのおつかいの結果は、人々から妬まれ、ののしられ、十字架にかけられるというものでした。

しかし、愛の神様はその危険な場所において、光を見いだすことができるようにとイエス・キリストという方を送ってくださいました。

「夢」

多くの兄弟の中で、父親から特別扱いを受けていたヨセフさんは、意図せず兄弟たちの非難の的となってしまいました。そして、ヨセフさんに対して恨みを抱く兄弟たちを更に怒らせる出来事が起こりました。

「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。」(聖書 創世記37:5 新共同訳)

ヨセフさんはある夢を見ました。そして、その夢がどのような内容だったかを兄弟たちに語ったところ、更に状態が悪化してしまったということでした。

ただ夢を見てそれを話しただけで何故そこまで憎しみの感情を抱くのだろうかと思ってしまうところですが、それは、ヨセフさんの見た夢がそれだけ意味が明確にわかるようなものだったということが原因でした。

ヨセフさんは2つの夢を見ました。ヨセフさん自身がその夢の内容をこのように語っています。

「畑でわたしが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(聖書 創世記37:7 新共同訳)

「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」(聖書 創世記37:9 新共同訳)

どちらの夢も、兄弟たちが憎き弟ヨセフさんに対してひれ伏すというような内容のものでした。

こんな夢を見ることも気にさわることだったでしょうし、それをわざわざ報告してくることも怒りを買う原因になったかもしれません。

そして、さすがにこれにはヨセフさんを溺愛していた父ヤコブさんも苦言を呈しました。

しかし、これはヨセフさんが意図的に考えた作り話ではありません。そうではなく、ヨセフさんが神様から見せられた夢でした。

そのことを悟ったのか、苦言を呈しつつも父は兄弟たちとは異なる思いを抱いていました。

「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」(聖書 創世記37:11 新共同訳)

この後、この家族はこの夢が自分たちの運命を指し示していたということを身をもって知ることになっていきます。

「父の愛」

神様から多くの祝福を与えられたヤコブさんは、結果的に12人の息子が与えられました。

「ヤコブの息子は十二人であった。レアの息子がヤコブの長男ルベン、それからシメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ラケルの息子がヨセフとベニヤミン、ラケルの召し使いビルハの息子がダンとナフタリ、レアの召し使いジルパの息子がガドとアシェルである。」(聖書 創世記35:22∼26 新共同訳)

12人という大人数の兄弟でしたが、全て同じ母親から生まれたのではなく、レアとラケルという姉妹、そして、それぞれの召し使いであるジルパとビルハという4人の女性から生まれてきた母親の違う兄弟たちでした。

ヤコブさんにとって皆大切な息子に変わりはありませんでしたが、

そんな中でも、一番大切にしていた息子がいました。それが、自分の本命の奥さんであるラケルさんから産まれた長男のヨセフさんでした。

「イスラエルは、ヨセフが年寄子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。」(聖書 創世記37:3 新共同訳)*イスラエル=ヤコブ

しかし、ヨセフさんに対する父の愛はかなりの偏りがあったため、問題が生じることとなってしまいました。

「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(聖書 創世記37:4 新共同訳)

多くの息子たちがいる中で、1人にだけ偏った愛を注いでいくことで、ヤコブさん自身が苦しんだ兄弟の不和というものを息子たちの中にもたらすことになってしまいました。

私たちの父なる神様は、12人よりもはるかに多い、比べものにならない数の子どもをもっておられます。しかし、私たちの父なる神様は、偏った愛を示すことはありません。その愛は全ての人に対して限りなく注がれています。

「その道を歩む」

エサウとヤコブという2人の兄弟は、長子の特権のことで関係が悪化し、一時顔を合わせることもできない状態になっていました。しかし、神様の導きの中でもう一度顔を合わせ、一緒に暮らす日をむかえることができました。

父の死後、この兄弟はまた別々に暮らすこととなっていきます。しかし、今回は後ろめたいことが起こったからではありませんでした。

「彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたからである。」(聖書 創世記36:7 新共同訳)

長子の特権を一度の空腹から簡単に手放した兄、父を騙して長子の特権を手に入れた弟。どちらにも問題があったものの、神様はどちらも顧みてくださり両者共に一緒に暮らすことができないほどの財産を与えて祝福されました。

また、この2人の兄弟が別々の地で暮らすこととなったのは、もう一つの側面がありました。

ヤコブさんは、長子の特権において神様からの祝福という霊的な部分を求めていました。これは、アブラハムさん、イサクさんから継承して来た神様に対する信仰ゆえのことでした。

それに対して、エサウさんはそのような部分に対する興味よりも財産の贈与という世的な部分に興味を持っていたようです。結果的に、エサウさんの家系はアブラハムさんから続いてきた信仰ではなく、他の神々へと向いていってしまいました。

そのような信仰の違いから別々の場所で暮らすということが神様のみこころの中で行われていったのでした。

神様は、アブラハムさん、イサクさんを通してこの2人の兄弟にもその恵みを示し、信仰の道を歩むように備えてくださっていました。それを選ぶ弟、そうではない選びをした兄。それぞれの道を歩んで行きました。

その道は私たちにも備えられています。私たちがその道を歩む選びをするのを神様は願っておられます。