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「見つめ続ける」

聖書には、様々な信仰の先輩たちの姿が記されています。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセ。

 そんな中でも、私たちが注目すべきは、信仰の歩みを完成されたイエス・キリストというお方です。

 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 (聖書 ヘブライ人への手紙 12:13 新共同訳)

 私たちは天の故郷を目指しながら、信仰の歩みを続けています。その歩みの中には様々なことが起こります。感謝と讃美に満ち溢れる時もあれば、信仰が揺さぶられることもあります。

 そんな私たちに対して、聖書はイエス様を見つめながら歩み続けるようにと言っています。

 春は出会いと別れの時です。この3月をもって異動のため八王子教会を去ることとなりました。ということで、聖書から信仰の先輩方の歩みを少しずつ見て参りましたこのシリーズは一旦お終いとなります。

 聖書が示すように、いつもイエス様という信仰の創始者また完成者を見つめ続けながら歩みを続けて行きましょう。

「神の業」

杖が蛇へと変わるという奇跡を見せられたモーセさんは、もう一つの奇跡を見せられました。

主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。 (聖書 出エジプト記 4:67 新共同訳)

蛇も驚きの奇跡でありましたが、今度の奇跡も更に驚くものでありました。この重い皮膚病は、不治の病として恐れられていたものでした。そのような病が、一瞬にしてモーセさんの手を覆ってしまいました。

蛇の時の驚きにも増して恐怖を感じたのではないかと思います。そして、更に驚くべきことに、神様の言葉通りに手をふところに戻すと、すっかり元の綺麗な手に戻ってしまったのでした。

そして、この驚くべき2つの奇跡を行われた神様はこのように言われました。

「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。(聖書 出エジプト記 4:8 新共同訳)

 そして、神様の計画はまだ続きます。

しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」(聖書 出エジプト記 4:9 新共同訳)

どちらも信じない存在に対しては、エジプトの中心であり人々の礼拝の対象であり命であったナイル川の水が血に変わるという切り札があることもしめされました。

神様は、この奇跡を通してモーセさんに選ばれしリーダーとしての確証を与え、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民やファラオに対しても偉大な存在をしめそうとしておられました。

救いの計画は、人間の権力や力ではなく、神様の業がそこにあらわれることで成し遂げられていきます。

「尻尾を掴む」

自分が誰から遣わされたのかという確かな保証が与えられたモーセさんでしたが、それでもモーセさんは素直に召しを受け入れることができずに神様に問いました。

 そこで、神様はモーセさんの目の前で不思議な業を行われました。

 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。 (聖書 出エジプト記 4:1-3 新共同訳)

 モーセさんは羊の世話の途中でこの場所に寄り道をしましたので、モーセさんの手の中にあったのは羊飼いの必需品である杖でした。

 しかし、神様の言葉に従って地面に投げると杖が蛇へと姿を変えたのでした。杖が蛇に変わったことも驚きだったことと思いますが、何よりも突然蛇が現れたら飛びのくのも納得です。

 そんな中、神様は1つの難題を出されました。

主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。(聖書 出エジプト記 4:4 新共同訳)

どんな種類のどんなサイズの蛇だったかはわかりませんが、蛇を触ることすら無理という人がほとんどかもしれません。そんな中でも、蛇つかいという蛇を上手くつかう人たちは蛇の頭を掴んで捕まえるそうです。理由は、頭を掴めば噛まれないからです。

しかし、神様は頭ではなく尻尾を掴むようにと命じられました。これは蛇が苦手か得意かに関わらず、噛まれる危険性のある中で行うなかなかのチャレンジだったことと思います。

しかし、モーセさんはこの神様の言葉に従って尻尾を掴みました。すると、蛇に噛まれることはなく、もとの杖へと戻ったのでした。

このモーセさんの体験から、神様の言葉に信頼することの大切さを学ばされます。

「名前を聞かれたら」

そんなタイミングでも年齢でもないはずだったのに、神様から「今、行きなさい」と言われたモーセさんでしたが、その召しを受けるにあたり不安要素が尽きません。

モーセは神に尋ねた。 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

(聖書 出エジプト記 3:13 新共同訳)

 前科者であるということも不安要素であったことと思いますが、ここでモーセさんが神様にぶつけた不安は、誰から遣わされたのかと聞かれたらなんと答えたらよいのかということでした。つまり、神様の名を聞かれたらなんと答えたらよいのかということです。

 そこで、神様は日本人の私たちにはなじみのない表現で自己紹介をされました。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(聖書 出エジプト記 3:14 新共同訳)

 わたしはある。つまり、存在している。存在そのものである。そして、命の源であり、永遠の存在である。この自己紹介からそのような神様を感じることができます。モーセさんを遣わされたのは、万物の源であるお方でした。これ以上の存在はいない。そのような偉大なお方が、モーセさんを遣わされました。そして、その方が共にいるという力強い約束をされました。

 イスラエルの人々をエジプトの奴隷から救い出されたこの偉大な神様は、私たちを罪の奴隷から解放してくださるお方です。

 これ以上の存在はいないという方が、私たちを愛し、救いのために働いてくださっていることは本当に驚くべき恵みです。