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「放ってはおけない」

数年前のことです。「焚火で焼き芋」にハマり、夜な夜な真っ暗な中で焚火をし、畑で獲れたてのサツマイモをアルミでくるんで放り込むというのが一日の終わりの楽しみでした。

最初は、どのくらい火の中に入れておけばよいのかわからず、出してみたら半生だったということもありました。しかし、「放っておいて丸焦げになってしまった」という残念なことにだけはならないようにと、随時木の棒でツンツンしながら焼けるのを待っていました。

寒空の中で食べるホクホクの焼き芋は格別です。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(聖書 ヨハネの手紙一3:16 新共同訳)

私たちを造った神様は、造ったまま放っておく神様ではありません。「わたしが担い、背負い、救い出す」(聖書 イザヤ書46:4 新共同訳)と言われる神様です。

神様は、今も私たちに大きな関心を持って関わって下さっています。私たちは、生活の中で中々それを感じることができないこともあります。特に、苦しみや悲しみに襲われた時はそうかもしれません。

しかし、神様は私たちに大きな関心を持っているということを“驚くべき方法”で示されました。それが、“十字架の死”でした。

「命を捨てるほどに、わたしはあなたを愛している」。私たちを造った神様は、そう言われます。

十字架に磔にされたイエス・キリストを上げてみてください。そこには、私たちを造った神様の愛が溢れ出ています。

神様は、決して私たちを放ってはおかれません。

「造った方がいる」

私たちは、身の回りにある物を見る時、大体の物についてそれが何のために存在しているかを答えることができます。

椅子は座るため。布団は寝るため。物置は物をしまうため。時には、椅子を机にしてみたり、水差しを花瓶にしてみたりと、本来の使い方以外の使い方をする場合もあります。

しかし、それらは全て目的をもって、意図をもって造られました。そして、それを造る人たちは、お洒落な形にこだわってみたり、機能性を重視してみたりと、色々な意図の中でデザインをしていきます。

しかし、私たちの身の回りにある物の中に、それが何のために存在するかという明確な答えをすることが難しいものもあります。

例えば、その辺に落ちている木の枝。これが何のためにあるのかを考える時、椅子や布団などと同じような明確な答えを見つけるのは困難です。

それは、造った会社がないからです。木が成長する時に育ってきて、風にあおられて折れてしまったということはわかります。しかし、それが何のために、どのような目的で、どのような意図を持って造られたかということは、それを造った存在に聞かないかぎりはわかりません。

そして、それは私たち人間も同じです。何のために存在するのか。これは、人間という存在をこの世に誕生させた存在に問わなければ答えはわかりません。聖書は、その存在が誰であるかについて、明確な答えを与えてくれます。

「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(聖書 イザヤ書46:4後半部 新共同訳)

私たちは、神様によって目的と意図を持って造られた存在である。聖書はそう言います。そして、その神様は私たちの全てに責任を持ってくださると言ってくれる方です。

「おうちに帰ろう」

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(聖書 ヨハネによる福音書14:1∼3 新共同訳)

イエス様は、私たちに対して、「神様の家には住む場所は沢山あるから大丈夫!あなたを迎える準備をしに行ってくるよ!準備ができたら迎えに戻って来るからね!」と、約束してくださいました。

私たちには、住む場所が必要です。時として、住む場所を得ることができずに苦しんだり、大きな災害で住む家を失ってしまったりすることもあります。

しかし、イエス様が用意をしに行ってくださった父なる神様の家は、そのような不安にかられる心配はない場所です。そして、神様は、そこに行きたいと望む人を喜んで受け入れてくださいます。

イエス様は、私たちがそのおうちに帰るために、どの道を通ったら良いかを教えてくださいました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(聖書 ヨハネによる福音書14:6 新共同訳)

父なる神様のもとへ帰る道は、たった一つです。イエス様という道を通ること。これが、唯一の道です。

イエス様という道を通って、父なる神様のおられるおうちに帰りましょう。

「名前」

「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」(聖書 創世記2:8 新共同訳)

神様は、人間をエデンという名の園に置かれました。とても自然豊かで美しい場所だったことと思います。

神様は、このエデンの園において、人間に大切な役割を与えられました。

「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(聖書 創世記2:15 新共同訳)

神様は、ただ人間をつくっただけではなく、人間に仕事を任せられました。

エデンの園に住み、そこを耕して守ること。これが、人間に与えられた役割でした。

また神様は、その中でとてもユニークな役割を与えられました。

「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」(聖書 創世記2:19 新共同訳)

世界中の生き物がつくられた時、まだ名前がありませんでした。そこで、神様は人間を名付けの親として任命されました。

今は言語が沢山あるため、同じ牛でも表現の仕方が沢山あるわけですが。どのような観点で、どのような意味を込めて生き物たちに名前を付けていったのだろうと気になるところです。

神様は、御自分のつくられた極めて良い世界を、愛する人間に管理してもらいたいと願い、その役割を与えられました。当初と比べると恐ろしいほどに壊れてきてしまった世界ではありますが、神様は私たちに対しても同じ思いでおられます。

生き物や自然など、神様がつくられたものを大切にしていきましょう。

「今でも安息日」

神様は、6日間かけてこの世界の様々なものを造られました。光から始まり、水や陸地、草木や生き物を造り、人間が暮らすのに何不自由ない状態の世界が造られました。そして、全てを整えた後、愛する人間を造られました。

 

「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」 (聖書 創世記2:1∼3 新共同訳)

 

神様は、すべてのものを造られ、7日目に休みをとられました。勿論、神様は疲れることはありませんので、目的を持って休まれました。

それは、愛する人間と一緒に過ごすためでした。きっと神様は、この安息日をとても楽しみにしながら天地を創造されたのではないかと思います。

人間が造られて最初にむかえた日がこの安息日でした。神様の愛をたっぷり受けて過ごした1日だったと思います。

そして、この素敵な日は、今でも続いています。週の第7日目の土曜日、この日が、神様が人間と過ごされた安息日です。

残念ながら、今の世界は神様が世界を造られた当初の状態とは異なる状態に劣化してしまいました。しかし、安息日は変わりません。

週の第7日目に私たちと時間を過ごすことを神様は今でも楽しみにしておられます。

神様は、日々私たちと共にいてくださるお方です。その神様と、もっと深い交わりの時を持つことができる日が毎週備えられていることは本当に感謝なことです。

日々、思い煩いや重荷を負って歩んでいる私たちですが、この安息日、神様のもとへ行き、神様の与えてくださる安息日の平安に憩う体験をしてみましょう。