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「目の前か将来か」

イサクとリベカが祈って与えられたエサウとヤコブという兄弟。エサウが兄でヤコブが弟でした。当然、兄のエサウが長男として長子の特権を持っていました。

しかし、その長男として期待されていることや長子の特権というものは、兄エサウにとって堅苦しいと思えるものだったのかもしれません。彼がこの長子の特権を手放してしまう出来事が起こりました。

エサウがいつものように狩りをするために野山を駆け巡り、くたくたに疲れ果てて帰ってくると、弟ヤコブがパンとレンズ豆の煮物を持っているのが目に留まりました。

空腹だった兄エサウは、弟ヤコブにその食べ物を譲ってほしいと頼みました。すると弟ヤコブは衝撃の発言をします。

「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」(聖書 創世記25:31 新共同訳)

弟ヤコブは、この食べ物と引き換えに、お兄さんが持っている長男としての特権を自分に譲ってほしいと頼んだのでした。

普通であれば、軽く受け流しても不思議ではない言葉でした。しかし、兄エサウは空腹のあまりこの要求に対してこう答えました。

「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい。」(聖書 創世記25:32 新共同訳)

弟の衝撃発言に対し、兄も衝撃の返答をしたのでした。こうして兄エサウは、目の前の一時の空腹と引き換えに、長子の特権という将来に関係のある大切な権利を手放してしまったのでした。そこに至った原因として、兄エサウが普段からこの長子の特権をどのようにとらえていたかということも深い関係があったのでした。

神様は聖書を通して将来の輝かしい約束を希望として与えてくださっています。日々その約束を見つめることで、今目の前にある一時の困難に負けることなくイエス様がもう一度戻って来られるその日を待ち望みましょう。

「神が備えてくださる」

アブラハムさんが、愛する息子を献げ物として献げるようにと神様からの命を受け、苦しみながらもその言葉に従った時、直前で手をとめさせ、身代わりの小羊を与えてくださいました。そして、神様は彼の信仰を見て祝福されました。

この出来事には、もう一人の信仰者が登場します。それが、アブラハムさんの愛する息子イサクでした。

彼は、いつものように父親とともに神様を礼拝するために出発しました。しかし、一つ不思議なことがありました。そこで父アブラハムにこう尋ねました。

「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」(聖書 創世記22:7 新共同訳)

当然、父は本当のことを答えることができません。何故なら、その献げ物はその質問をしてきたイサク自身だったからです。私たちなら何と答えるでしょう。

いよいよ祭壇に薪を置き、献げ物を献げる時がやってきました。そして、イサクの質問対する答えが明らかにされました。

「自分が今から祭壇の上で焼き尽くす献げものとして献げられるんだ」。これを知ったイサクさんはどのように思ったのでしょうか。

「そんなのは嫌だ」と言って、年老いた父を突き放して逃げることもできたと思います。しかし、彼は逃げも隠れもしませんでした。

そうではなく、父の信じる神様の言葉に、イサク自身も従って行ったのでした。この後の結果を知っている私たちは、安心してこの出来事を読み進めることができますが、当事者たちにとっては本当にとてつもない経験だったに違いありません。

さて、このとてつもない経験を目の前にして、息子から献げ物はどこにあるのかという質問を受けた時、父はこう答えていたのでした。

「『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。」(聖書 創世記22:8 新共同訳)

この信仰こそが、親子二人が一緒に神様に信頼して歩ことができた大きな要因でした。

「主の山に備えあり」

アブラハムさんに念願の息子が与えられ、喜びに満たされた日々の中、神様はアブラハムさんに試練を与えられました。

ある日、神様はこう言われました。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(聖書 創世記22:2 新共同訳)

本当に長く苦しみながらもやっと与えられた待望の息子をあろうことか焼き尽くす献げ物としてささげるようにと命じられたのでした。言い換えれば、自分の手で息子の命を絶たなければならないということでした。

神様の言われたことは本当にアブラハムさんを悩ませたことと思います。しかし、アブラハムさんは神様の言いつけ通りに愛する独り子を献げ物としてささげる決心をしました。

張り裂けそうな思の中、「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」(創世記22:10)時です。アブラハムさんの名前を呼ぶ声が聞こえました。それは、神様の使いの声でした。み使いは言いました。

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(聖書 創世記22:12 新共同訳)

愛する息子を献げるという苦しい現実であったとしても、神様の言葉に従うというアブラハムさんの信仰が認められたのでした。

そして、神様を信じて山に登ったアブラハムさんは、近くに一匹の雄羊がいるのに気が付きました。「アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」(創世記22:13)のでした。

これは、神様が用意してくださった身代わりの動物でした。私たちにもその身代わりの存在が与えられています。それが、神の小羊イエス・キリストです。

神様が私たちの身代わりとして大切な愛する独り子を与えてくださったからこそ、私たちは全て信頼して神様の言葉に従っていくことができます。

「どんな場所でも」

教会の玄関には短い階段があります。ふと気が付くと、その階段の一番下の段と地面の隙間に凄い存在感を放っているものがあるのに目が留まりました。

暖かくなってくると、色々なところに雑草が生えてきます。アスファルトの道であっても、少しの隙間にある土から元気よく草が生えてくるのを目にすることもあると思います。

今回目に留まった教会の玄関先の階段と地面の間から顔を出していたのは、雑草ではなく、綺麗なお花でした。

あまりにも立派に咲いていたので、感動するほどでした。イエス様はこのように言われました。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」

(聖書 マタイによる福音書6:27∼31 新共同訳)

種を蒔いたわけでも、水や肥料をやったわけでもないのに、本当に少しの隙間に根を張り、立派に育っているお花の姿は凄い存在感でした。

そして、それを見る時に、その生命力にあふれる綺麗なお花を造られた神様の大きな御業を感じることができます。

神様は、どんな条件下にあってもこの綺麗なお花をさかせることができるお方です。それと同じように、私たちがどんなに罪の深さに苦しんでいたとしても、そこから救いだし、新しく造り変えてくださる偉大なお方です。

それが、私たちを造られた神様です。

「アブラハムの信仰」

聖書には、信仰とはどのようなものかが記されています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(聖書 ヘブライ人への手紙11:1 新共同訳)

私たちの目に見える、想像することができる範囲のことではなく、私たちの目には見えないこと。つまり、神様の「約束」を信じて歩むことだと書かれています。

そのような歩みをした人物として、新約聖書ではアブラハムさんの名前が挙げられています。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(聖書 ヘブライ人への手紙11:8∼12 新共同訳)

アブラハムさんが、長らく住んだ土地を後にして、旅を始めるようにと言われた出来事から始まり、子どもを授かることを諦める年齢に達していたにも関わらず、イサクという息子が与えられるという出来事。

このような、先が見えない中で「約束」を信じることによって、アブラハ

ムさんは信仰を持って歩んで行きました。

その先に待っているのは、神様の約束に与ることができるという大きな祝福

です。