甲府教会からのお知らせ」カテゴリーアーカイブ

「灯」

あけましておめでとうございます。昨年は世界中が目まぐるしく変化する1年でありました。命の危険と隣り合わせという状況で過ごされた方も多くおられたと思います。そのような中でも、2021年を迎えることができましたことを神様に感謝いたしましょう。

また、現在も感染症の対応のために休む間もなく働いておられる方々の上に神様からの平安が与えられますようにお祈りいたします。

聖書のみ言葉です。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(聖書 詩篇119:105 新共同訳)

詩篇記者は、神様の御言葉は進む道の光であり、その道を歩む歩みを照らす灯であると言います。

進む道が明るければ光も灯も必要ないかもしれません。しかし、人生という道を歩む時、私たちには光が必要であり、歩みを照らしてくれる灯の必要を感じざるを得ません。

神様の御言葉である聖書の言葉は、私たちが人生を歩んで行くためにとても大切な光であり、灯です。

この灯は、「今日は必要だけど明日はいらない」、「朝はいらないけど夜は必要」というものではありません。私たちが人生を歩む上で、片時も手放すことができない大切なものです。

恐らく、暗闇で光る灯は、目的地までを一気に照らすことはありません。私たちがその一歩を踏み出すための足元を照らしてくれるものです。

神様の御言葉も、私たちが今日その一歩を踏み出すために必要な光を与えてくれます。しかし、それと同時に、将来への希望を含むものでもあります。

「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(聖書 ペトロの手紙二1:19 新共同訳)

私たちに与えられている聖書の預言は、イエス様がもう一度戻って来られるにあたって起こる時のしるし、そして、イエス様が必ずまた戻って来られるという約束です。

私たちの歩みがどのような状況にあっても、聖書を通してその力強い約束が与えられています。今年も神様の御言葉に照らされ、一歩一歩しっかりと歩いていく、そんな歩みをしてまいりましょう。

「父と同じように」

アブラハムの信仰を受け継いだイサクは、父の言葉に耳を傾け、その教えの通りに神様に従い、40歳でリベカという女性と結婚することになりました。

しかし、不思議なことに、アブラハムとサラの時のようにこの夫婦の間にも子どもが与えられませんでした。

そこでイサクは祈りました。

「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」(聖書 創世記25:21 新共同訳)

恐らく、父アブラハムから自分の誕生の経緯についてを聞かされていたことと思います。父の信仰を受け継いだイサクは、神様が自分の両親にそうしてくださったように、自分たち夫婦にも子どもを与えてくださいと祈ったのでした。

そして、神様はイサクの祈りを聞き入れ、エサウとヤコブという双子の男の子を与えられました。

聖書には「リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった」(創世記25:26)と書かれています。

父アブラハムのことを思い出してみますと、アブラハムが六十歳の時はまだ神様からの召しをうけておらず、旅にも出ていなかった時でした。

そう考えると、アブラハムさんがどれだけ長い間子どもを待望していたのかということがよくわかります。

しかし、その歩みが同じく子どもが与えられなかった息子夫婦に希望を与えたのかもしれません。

人生なにが起こるかわかりませんね。

「大争闘の中の愛」

「大争闘」という言葉があります。争い、闘いという意味ですが、ここに「大」という字がつきますので、ただの争闘ではなく、大きな争闘というわけです。

この大争闘は、聖書を通してその戦いの歴史を見ることができます。では、一体どのような戦いなのでしょうか。聖書は次のように言います。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(聖書 エフェソの信徒への手紙6:12

この大争闘は、目に見える相手と直接戦うものではなく、「支配と権威」に関わるものであると言われています。


この世界は、神様が造り、統治しておられました。しかし、その神様の統治に対して不満を抱き、自分こそが世界を支配する権威があると主張して反旗を翻した存在がいました。それが、暗闇の世界の支配者でした。

その支配者は、悪の諸霊とともに神様と神様の統治を望む者たちに戦いを挑みました。その戦いこそが、大争闘と呼ばれる戦いの始まりでした。

この戦いは、神様の支配と権威、または、暗闇の世界の支配者の支配と権威のどちらを認めるのかということが大きな争点となってきます。そして、聖書は、わたしたちもその大争闘の中にいるんだと教えてくれています。

そこで、神様は聖書を通して「わたしのもとに来なさい」といつも語りかけてくださっています。神様は私たち一人一人に、信頼して従って来てほしいと心から望んでおられます。

そのために、神様はイエス・キリストという大事な独り子の十字架の死という出来事を通して、私たちが心から信頼して従って行くことができるようにと真実の愛を示されました。

私たちを造り、愛して下さる神様は、今日も私たち一人一人を招いてくださっています。

「溢れる恵み」

夏のVBS(夏季聖書学校)で昼食時に出すためのポップコーン作りを担当したことがありました。

他にもスイカやかき氷、流しそうめんなど、見るにも楽しく、食べても美味しいものが沢山ありました。

沢山の子どもたちが参加してくれていたため、頑張って大量のポップコーンを作りました。しかし、作りすぎてしまったせいか、大きなお鍋いっぱいに溢れかえってしまいました。お鍋を持ってポップコーンを配り歩きましたが、それでもまだまだ無くならない量のポップコーンでした。

「いかに幸いなことでしょう あなたに選ばれ、近づけられ あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によってわたしたちが満ち足りますように。」(聖書 詩篇65:5 新共同訳)

神様は、私たちに溢れるほどの恵みを与えたいと思っておられます。私たちは中々それに気が付かなかったり、素直に受け取ることができなかったりすることもあります。しかし、聖書はこう言います。

 「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。」(聖書 詩篇65:4 新共同訳)

神様のもとには、私たち一人一人を満たしてくださる恵みが溢れ出ています。罪という重荷に苦しむ私たちが、それを贖ってくださった十字架の出来事に目を向ける時、その溢れる恵みを知ることができます。

私たちがその神様の思いを知り、神様のもとに引き寄せて頂くことで、恵みの大きさ、またその多さを感じることができるでしょう。

 

「我々に似せて」

テレビやインターネットで、動物たちの面白くも可愛い映像を目にします。何故、こんなに可愛いのだろうと思ってしまいますが、神様が造られたので可愛くて当たり前かもしれません。

「地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに生み出せ。」(聖書 創世記1:24 新共同訳)

天地創造の第六日目に、神様は地の上で生活する生き物を造られました。どのような種類がいて、どのような大きさで、見た目だったのかは想像の範囲でしかありませんが、きっと愛らしい生き物ばかりだったのではないかと想像してしまいます。

そして、その同じ日に神様はそれらの生き物とは別に、特別な存在を造られました。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」」(聖書 創世記1:26 新共同訳)

神様が造られた特別な存在。それが人でした。神様は、人を造るにあたり、モデルを用いられました。そのモデルとは、神様ご自身でした。

神様が造られたものの中で、人が特別であった理由は、神様をモデルにし、神様に似た者として造るという明確な意図があったからでした。

そして、神様は人を造る際にも特別な方法を用いられました。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(聖書 創世記2:7 新共同訳)

人は、神様が丹精込めて造られた特別な作品でした。神様は、私たち一人一人のことも同じように特別な存在として見てくださっています。