「造った方がいる」

私たちは、身の回りにある物を見る時、大体の物についてそれが何のために存在しているかを答えることができます。

椅子は座るため。布団は寝るため。物置は物をしまうため。時には、椅子を机にしてみたり、水差しを花瓶にしてみたりと、本来の使い方以外の使い方をする場合もあります。

しかし、それらは全て目的をもって、意図をもって造られました。そして、それを造る人たちは、お洒落な形にこだわってみたり、機能性を重視してみたりと、色々な意図の中でデザインをしていきます。

しかし、私たちの身の回りにある物の中に、それが何のために存在するかという明確な答えをすることが難しいものもあります。

例えば、その辺に落ちている木の枝。これが何のためにあるのかを考える時、椅子や布団などと同じような明確な答えを見つけるのは困難です。

それは、造った会社がないからです。木が成長する時に育ってきて、風にあおられて折れてしまったということはわかります。しかし、それが何のために、どのような目的で、どのような意図を持って造られたかということは、それを造った存在に聞かないかぎりはわかりません。

そして、それは私たち人間も同じです。何のために存在するのか。これは、人間という存在をこの世に誕生させた存在に問わなければ答えはわかりません。聖書は、その存在が誰であるかについて、明確な答えを与えてくれます。

「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(聖書 イザヤ書46:4後半部 新共同訳)

私たちは、神様によって目的と意図を持って造られた存在である。聖書はそう言います。そして、その神様は私たちの全てに責任を持ってくださると言ってくれる方です。