「名前を聞かれたら」

そんなタイミングでも年齢でもないはずだったのに、神様から「今、行きなさい」と言われたモーセさんでしたが、その召しを受けるにあたり不安要素が尽きません。

モーセは神に尋ねた。 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

(聖書 出エジプト記 3:13 新共同訳)

 前科者であるということも不安要素であったことと思いますが、ここでモーセさんが神様にぶつけた不安は、誰から遣わされたのかと聞かれたらなんと答えたらよいのかということでした。つまり、神様の名を聞かれたらなんと答えたらよいのかということです。

 そこで、神様は日本人の私たちにはなじみのない表現で自己紹介をされました。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(聖書 出エジプト記 3:14 新共同訳)

 わたしはある。つまり、存在している。存在そのものである。そして、命の源であり、永遠の存在である。この自己紹介からそのような神様を感じることができます。モーセさんを遣わされたのは、万物の源であるお方でした。これ以上の存在はいない。そのような偉大なお方が、モーセさんを遣わされました。そして、その方が共にいるという力強い約束をされました。

 イスラエルの人々をエジプトの奴隷から救い出されたこの偉大な神様は、私たちを罪の奴隷から解放してくださるお方です。

 これ以上の存在はいないという方が、私たちを愛し、救いのために働いてくださっていることは本当に驚くべき恵みです。