投稿者「堀 圭佑」のアーカイブ

「譲る」

ケーキを切り分けたくない理由を挙げるとするならば、上手く等分できなかったらどうしようという心配があるからです。または、形を崩してしまったらどうしようという心配もあります。

しかし、小さい頃思っていたケーキを切りたくない理由はもっと別の理由でした。ケーキを切り分けた人は最初にケーキを選べないというルールを知っていたからです。

確かに、ケーキを切った人が最初に選ぶとなると、等分にはせず、こっそり一つだけ大きく切り分けておくなんてこともあり得るからです。私も隙あらばそうしようと狙っていた時期がありました。

神様に「行きなさい」と言われたアブラハムさんは、甥のロトさんと一緒に旅をしていました。しかし、二人旅というわけではありません。それぞれに家族がいましたし、仕えていた人たちもいました。そして、それぞれに財産も持っていました。

この大きな遊牧民が1つの場所に滞在し、家族や財産が増していくと共存することが難しい問題が生じてきてしまいます。

そこで、年上のアブラハムさんからロトさんに対してこのように提案をしました。

「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(聖書 創世記13:9 新共同訳)

普通なら、土地の奪い合いになってもおかしくありません。しかし、アブラハムさんは、年上だから従えというわけでもなく、あなたが選んでいいよと年下のロトさんに選ぶ権利を譲ったのでした。

執着せずに与える心を持つことができるのはとても素敵なことですね。

「導かれるままに」

皆で散歩をしに行くということで、行き先もわからないまま前を行く人たちについて行きました。

公園らしき敷地に入り、しばらく歩くと階段を登り始めました。そのままついて登って行くと、今度は山道に入って行きました。

散歩ということで、気を抜いていましたが、結局汗だくになりながら中々登りごたえのある山道を頂上を目指して歩いているんだということに気が付きました。

頂上に辿り着いた時には、疲労感で一杯でしたが、そこから見る景色はとてもきれいなものでした。

散歩であれば、道も行き先も知らずに出発することに何の抵抗もありませんでした。しかし、人生はどうでしょうか。

聖書の中で有名な人物アブラハムさんは、ある日神様からこのように言われました。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように、あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(聖書 創世記12:1∼3 新共同訳)

神様は、道も行き先も言わず「わたしの示す地に行きなさい」と言われただけでした。アブラハムさんは70歳を過ぎていましたが、神様の「行きなさい」という言葉に従って住み慣れた土地を後にしました。

神様は、私たちにも「行きなさい」と言われる時があります。それは年齢がいくつであっても関係ありません。今日、その声がかかるかもしれません。アブラハムさんのように、その神様の言葉に従って旅立つ時、神様はその先に大きな祝福を用意して待っていてくださいます。

「大争闘の中の愛」

「大争闘」という言葉があります。争い、闘いという意味ですが、ここに「大」という字がつきますので、ただの争闘ではなく、大きな争闘というわけです。

この大争闘は、聖書を通してその戦いの歴史を見ることができます。では、一体どのような戦いなのでしょうか。聖書は次のように言います。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(聖書 エフェソの信徒への手紙6:12

この大争闘は、目に見える相手と直接戦うものではなく、「支配と権威」に関わるものであると言われています。


この世界は、神様が造り、統治しておられました。しかし、その神様の統治に対して不満を抱き、自分こそが世界を支配する権威があると主張して反旗を翻した存在がいました。それが、暗闇の世界の支配者でした。

その支配者は、悪の諸霊とともに神様と神様の統治を望む者たちに戦いを挑みました。その戦いこそが、大争闘と呼ばれる戦いの始まりでした。

この戦いは、神様の支配と権威、または、暗闇の世界の支配者の支配と権威のどちらを認めるのかということが大きな争点となってきます。そして、聖書は、わたしたちもその大争闘の中にいるんだと教えてくれています。

そこで、神様は聖書を通して「わたしのもとに来なさい」といつも語りかけてくださっています。神様は私たち一人一人に、信頼して従って来てほしいと心から望んでおられます。

そのために、神様はイエス・キリストという大事な独り子の十字架の死という出来事を通して、私たちが心から信頼して従って行くことができるようにと真実の愛を示されました。

私たちを造り、愛して下さる神様は、今日も私たち一人一人を招いてくださっています。

「幸い」

愛川ふれあいの村という自然の中にある研修施設にて、大学生を対象にしたバイブルキャンプが行われました。

講師は大学の宗教部スタッフをしている牧師が担当しました。私もチャプレン(学校付き牧師)として講師を担当する機会が与えられました。

また、特別講師として北太平洋アジアにあるセブンスデー・アドベンチスト教会をまとめる支部にて教育局長をしておられる先生をお迎えして講義をして頂きました。この先生は、以前フィリピンにあります大学院で神学を教えておられたこともあり、豊富な知識と分かりやすい講義で私自身とても良い学びの機会となりました。

今回のキャンプのテーマはダニエル書と黙示録でした。今の時代を生きる私たちにとって、とても大事なメッセージが込められている2つの書物です。

昔々、ダニエルという人が神様から様々な幻を示されました。その時、ダニエルさんはこのように告げられました。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」(聖書 ダニエル書8:17 新共同訳)

そして、ダニエルさんの生きていた時代から数百年後、今度はヨハネという人が神様から様々な幻を示されました。そのヨハネさんが書いたヨハネの黙示録にこのように記されています。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」(聖書 ヨハネの黙示録1:3 新共同訳)

ダニエルさんは終わりの時に関することが示され、ヨハネさんはその時が迫っているということを示されました。そして、今の時代は更に時が迫っていると言うことができます。

だからこそ、神様は幸いな者となるように書かれたことを守りなさいと言われます。

「最初の犠牲」

神様がこの世界を造られた時、死も涙も苦しみもない完璧な世界でした。しかし、園の中央に置かれた「それを食べたら死んでしまうから、決して食べてはいけないよ」と言われた木の実を人間が口にしてしまった結果、それまで円満であった神様との関係に深い溝ができてしまいました。

神様の守りの中にいて、何不自由ない環境であったはずなのに、目の前に現れた蛇の語る「それを食べても死ぬことはないよ。むしろ、食べれば神様のようになれるのだから」という言葉に魅力を感じ、気持ちがそれていってしまいました。

しかし、その甘い言葉にのせられた結果、待っていたのは厳しい現実でした。今まで神様のもとで守られていた生活が一変、神様から離れた結果、苦しみや悲しみ、争いや妬み、そして、死というものを抱えて生きていかなければならなくなってしまいました。それが罪のもたらしたものでした。

アダムとエバは、この事態を何とかしなければという一心で、自分たちの中にある罪を隠すかのように、いちじくの葉っぱで裸を覆いました。

しかし、どんなに隠そうとしても、神様の目を欺くことはできません。たとえ、いちじくの葉で覆ったとしても、それはいつか朽ちてしまいます。同じように、何とかして自分のしてしまったことを隠そうとしても、いつかは露わになってしまいます。

そこで、神様は、自分から離れていった人間に驚きのプレゼントをされました。

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(聖書 創世記3:21 新共同訳)

神様は、「あなたたちが自分で用意したものでは、問題を覆うことはできない。だから、これを着なさい。」そう言って動物の皮で作った衣を着せられました。

世界が造られて、初めて血が流され、命が失われた瞬間でした。この犠牲こそが、私たち一人一人を罪から救うものであると神様は言われます。これが、イエス・キリストの十字架の死を指し示すための最初の犠牲でした。