投稿者「堀 圭佑」のアーカイブ

「New」

聖書の中で、キリストはこのように言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(聖書 ヨハネによる福音書3:3 新共同訳)

これは、ニコデモという当時の議員さんに対して言われた言葉です。ニコデモさんは、聖書に詳しい人物でしたが、キリストの言うこの言葉の意味がわかりませんでした。

ニコデモさんは、社会的な地位があり、自分は沢山善行をしているし、皆から尊敬されていると自負していました。それなのに、何故そんな自分が新たに生まれる必要があるのだろうかと疑問に思ったからです。

そこで彼は、もういい大人である自分がどうやったら母親のお腹に入ってもう一度生まれるなどということができるのですかと聞き返しました。

そこでキリストはこのように答えられました。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(聖書 ヨハネによる福音書3:5 新共同訳)

新たに生まれるというのは、母親のお腹に戻ってもう一度出てくることではなく、「水と霊」によって生まれることであると言われました。これが、バプテスマです。

バプテスマは、水の中に沈むことで罪の人生に死にます。そして、水から起き上がることで新しい歩みを始めます。その新しい歩みとは、十字架で私たちの罪のために死なれたキリスト、また、私たちが死に勝利するために墓から復活されたキリストと共に歩む人生です。そして、聖霊によって私たちの心が新たにされる時、文字通り、新しく生まれることができます。

既に新たに生まれた方は、日々新たにされましょう。そして、まだの方は、是非新たに生まれてみませんか?

「色々な種類」

大きな池のある公園に行きますと、アヒルさんボートを目にします。皆様も一度は乗ったことがあるかもしれません。私も小さい頃に乗ったことを覚えています。

静岡県藤枝市に蓮華寺池公園という公園があります。蓮華寺は名前の通り、蓮華が有名な公園です。

中心になる大きな池で沢山の蓮華を見ることができます。ここは幼い頃に何度も遊びに行った公園ですが、数年前久々に足を運び、あることに気が付きました。

それは、ボート乗り場にあるのがアヒルさんボートだけではなかったということです。

アヒルさんかと思いきや、パンダさんボートやコアラさんボートなど色々な種類のボートが浮かんでいました。パンダ好きにとっては心ひかれる瞬間でした。

「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。/一人一人に、“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(聖書 コリントの信徒への手紙一12:4、7)

聖書には、キリストを信じる人たちに対して聖霊によって賜物が与えられると書かれています。

預言をする賜物、病気をいやす賜物、奇跡を行う賜物、教える賜物など色々な賜物があります。

色々な賜物があるのは、教会が神様の働きをしてく上で、それぞれの賜物が「全体の益となるため」です。

そして、大事なのは、どの賜物も「それをお与えになるのは同じ霊」であるということです。

私たちにはどんな賜物が与えられているでしょうか。聖霊を求める祈りと共に、自分に与えられている賜物について瞑想してみましょう。神様は私たちがその賜物を喜んで神様のために活かしていくことを望んでおられます。

「目標を目指して」

新年明けましておめでとうございます。2020年がスタート致しました。今年もよろしくお願い致します。

元旦に初日の出を御覧になった方もおられると思います。私は毎年朝早く起きられず、日が昇ってしまっているというのが毎年恒例でした。今年も、そんな毎年恒例の元旦でした。

そんな中、真夜中に高尾山に登り、5時間も粘って高尾山からの初日の出をカメラに収めた青年がいました。

その頑張りの結果撮影された高尾山からの初日の出の写真を是非載せさせてほしいとお願いしましたところ、快く許可を頂きましたので、掲載いたします。

「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(聖書 フィリピの信徒への手紙3:13∼14 新共同訳)

聖書は、目標を目指してひたすら走るようにと言っています。キリストを救い主として信じる私たちは、天からイエス様が私たちを迎えるためにもう一度戻って来られるのを待っています。

その時に私たちは今の苦しみや困難とは比べものにならないような素敵な賞を頂くことができます。今年もしっかりとその目標を目指してひたすら走って行きましょう。

年が明け、キリストの再臨の日がまた近づきました。この素晴らしい目標をまだ御存知ない方とも共有し、御一緒に賞を頂きましょう。

「取り除く」

クリスマスが終ると、巷はお正月の準備モードです。家の大掃除はもう終わられたでしょうか。

中には、一年間ため込んでしまった汚れと格闘された方もおられるかもしれません。聖書の中に、“あるもの”が沢山溜まってしまった場所を綺麗にする大事な作業があるということが記されています。

 「こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。」(聖書 レビ記16:16 新共同訳)

“あるもの”とは、人間の“罪”でした。昔、聖所という場所で人間の罪の身代わりとして動物の血が流れていました。人間の罪を動物に(象徴的に)移し、罪を移された動物が血を流し、その流れた血を聖所という聖なる空間のなかへと運んでいきました。

これによって、動物に身代わりとなってもらった人の罪は、聖所の中に溜まっていきました。

しかし、忘れてはならないのは、まだそれが溜まったままだということです。溜まったものを取り除かなければ汚いままです。そのために大祭司と呼ばれる人が溜まったものを取り除く作業を行います。

これは、旧約聖書に書かれていることですが、私たちの罪も同じように天の聖所に溜まっています。今現在、それを綺麗にする作業が天において行われています。私たちの救い主イエス様が、今度は天の聖所の大祭司として働いてくださっています。

この働きにより、イエス様の十字架の救いを受け入れた人たちの罪は、きれいに取り除かれます。イエス様は、年末年始問わず、常に私たちのために働いていてくださるお方です。

「剣を鋤に」

今年の夏過ぎから、顧問として大学のハンドベルに関わらせて頂いています。私はハンドベルをやったことがありませんので、演奏の面でのお手伝いではなく、練習にお邪魔して一緒に夕食を頂き、夕礼拝でお話をするということで関わっていました。

ハンドベルはやったことがありませんが、中学時代から友達がハンドベルで演奏する姿を間近で見てきましたので、どれだけ難しいことをしているのかということは何となく理解していました。

複数の人たちでドレミファソラシドの音階を分担して鳴らすため、ベルを鳴らすタイミングが一人でもズレてしまうと、旋律が崩れてしまいます。また、鳴らしそびれてしまうと、そこだけ音が抜けてしまうことになります。一人一人の責任がとても重い楽器だなと思いながら聴いていました。また、ピリピリした関係の人たちが演奏したら、きっとテンポを合わせるのも難しいのだろうなと思って見ていました。

しかし、皆が心を一つにし、息がピタッとあった時の演奏は、まるで一人の人が奏でているかのような素敵な音楽になります。(これらは、あくまでもハンドベルを演奏したことがない私の主観ですが。)

「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(聖書 ミカ書4:3 新共同訳)

神様が、クリスマスに送って下さった独り子イエス様は、平和の君と呼ばれる方です。その方の与えてくださる平和は、争いのために持っていた武器を命の糧を得るための道具へと変えてしまうような平和です。

このクリスマスに、キリストの平和が皆様の上に豊かに注がれますようにお祈り申し上げます。