ショートメッセージ」カテゴリーアーカイブ

心のタンク

ある本を読んでいたとき、思わず「心から納得!」とうなずかされたことがありました。それは「心のタンク」について書かれた以下の文章でした。

私たちは皆、心のタンクを持っています。タンクのてっぺんには入り口があり、底の方には出口があります。そして、ある種の活動はタンクの中身を減らし、またある種の活動はタンクの中身を満たします。私たちが行っている行動の中には、力を与えてくれるものと、力を奪っていくものがあるのです。…あなたを満たしてくれるものは何でしょう。あなたを疲れさせるものは何でしょう。

(ウェイン・コデイロ『あなたが燃え尽きてしまう前に』110ページ)


 20160709心のタンク私たちは慌ただしく過ぎる日常の中で、自分の心のタンクがいつの間にか目減りして、カラカラになっていることに気づかずに過ごしてしまうことがないでしょうか。それでも無理して走り続けるといつか燃え尽きてしまいます。著者はそのような状態を「オイル交換をせずに車を何年も乗り続けるようなもの」(前掲書112ページ)と言っています。

私は神様がつくられた自然の中で身体を動かしていると、汗と一緒に心の中から毒素が放出されていくような気分になります。山歩きをして麓に帰って来るころには、心地よい疲労感とともに心のタンクが満たされているのを実感します。人それぞれの心のタンクの満たし方があると思いますが、聖書は「神様こそが『生ける水の源』である」と教えています。いつも神様につながって心のタンクを満たしていただきたいものです。


 

まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。

(旧約聖書 イザヤ2:13 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は梅雨の中休みの高尾山頂です。

起きなさい。恐れることはない。

先週の安息日の午後、兼任している八王子教会では「みことば配布プロジェクト」を実施しました。有志の方々でカードに思い思いの聖句を書き、道行く人たちに祈りを込めて配布しました。

教会を出発する前、不安そうな顔をしていた人も、すべてのカードを配り終えて帰って来るときには、見違えるように明るい表情になっていたのがとても印象的でした。

今週出会った聖書の言葉です。

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

(新約聖書 マタイによる福音書17:6,7 新共同訳)

20160702起きなさい。恐れることはない。「変貌の山」での出来事です。イエス様は恐れる弟子たちに、「起きなさい。恐れることはない」と言葉をかけられただけでなく、「彼らに手を触れ」られた、と書かれているのに目が留まりました。

イエス様は私たちの恐れを取り除いてくださいます。心が震え、恐怖で足がすくみ、地面に這いつくばってしまうようなとき、そんな私たちに優しく触れて立ち上がらせてくださるのです。

正直に言いますと、私は教会の外に出て行ってトラクトを配ったりするのがあまり得意ではありません。出て行くときにはドキドキしますし、勇気を出して配り始めても、受け取ってもらえなかったりすると「自分には無理だ」と思ってしまいます。でも、そんな恐れに取りつかれてしまう私を、イエス様は優しく励ましてくださるのです。

自分でも「牧師失格だなあ、、、。」と感じます。でもそんな私を、厳しく断罪するのではなく、優しく手を差し伸べてくださるイエス様から力をいただいて、また街に出て行きたいと思っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

斧を研ぐ

今週、全国牧師会(全牧師が集まっての研修会)が持たれました。

今回の牧師会のプログラムは、私たちセブンスデー・アドベンチスト教会の特徴の一つでもある、聖書が教えている健康についての学びでした。

「学び」というものは楽しいものでもあり、また苦しいものでもあります。それは、自分が知らなかったことを知る喜びであり、また、自分の心に真理が突きつけられる厳しさ、今まで安穏と過ごしてきた自分が変わらなければならないことに気づかされる辛さです。

苦しいことがあるからと言って、学ぶことをやめてしまえば成長はありません。

 なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。

(旧約聖書 コヘレトの言葉10:10 新共同訳)

20160625斧を研ぐ切れない刃物で作業をするのはとても危険なことです。切れないので力が要りますし、力を込め過ぎて怪我をしてしまうことがあります。よく研がれた包丁で料理をすると、料理の腕が上がったような気分になります。

あなたは、自分という「刃物」を、定期的に研いでいますか?すっかり切れ味が落ちてしまっているのに力ずくで無理して使い続けてしまってはいないでしょうか。

「自分という刃物を研ぐ」とは、よい状態で働きを続けるため、自分自身のメンテナンスを怠らないこと(学びを続けること・定期的に自分の目的地を確認すること・健康な心身を維持するために定期的に休むこと)なのではないかと思います。

今週も、皆様の心と身体が健やかでありますように。そして切れ味よく、日々の務めを果たすことが出来ますようにお祈りさせていただきます。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

花開く

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

(旧約聖書 イザヤ書35:1 新共同訳)

楽しみにしてきたことが実現すると嬉しいものです。先週そんな嬉しいことがありました。今年も百合の花がようやく咲いたのです。しばらく前からつぼみになっていたのですが、なかなか花が開きません。思わず、カッターで切れ目を入れてしまおうかとも思いましたが、花が自然に花開くときを待つことにしました。先週の金曜の朝、一つめの花が開くと、あとは次々に見事な花が咲きました。

コツコツと地道な努力を積み重ねて来た人が実力を発揮し始めるとき、「あの人の才能が開花した」と言われます。

百合の花も、私たち人間の努力も、すぐにきれいな花を咲かせるわけではありません。厳しい冬の季節を経て、春になって芽を出し、少しずつ成長して、ようやくこの時期に花開くのです。

美しい百合の花が咲くこの季節に、花が開くまでの目立たない時間の大切さを心に留めたいと思います。その下積みの時間があってこそ、美しい花が開くのですから。

 偉人の到達した高さは20160618花開く

 一足飛びに達し得たものではない

 かれらは、仲間が眠っている間に

 ほねおって夜道を登っていったのだ

 足の下にいろいろなことを踏まえ

 良いものや益になるものを習得し

 高慢をしりぞけ、欲望を殺し

 刻々に立ち現れる悪を征服して

 われわれは立ち上がるのだ

 その場かぎりで現れては消える

 日々のできごとやすべての平凡な事がらや

 歓喜や不満など

 それはすべて上へ登る階段なのだ

(エレン・ホワイト『教育』より)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

むなしく天に戻ることはない

今年も梅雨の季節になりました。人間とは贅沢なもので、雨が続けば「いいかげん晴れて欲しい、、、。」とつぶやき、真夏のような太陽の日差しがやってくると「そろそろお湿りが欲しい」とこぼします。

先日ニュースで報じられていましたが、今年は記録的な少雪と5月が少雨だったために、水源地のダムの貯水量が例年よりもかなり少なく、取水制限が実施されることが検討されているということです。

雨や雪が続くと「勘弁してほしいなあ~」と愚痴をこぼしていましたが、あの雨や雪が私たちの生活を支える命の水になっているのです。

このニュースを見ながら、自分に必要なものが与えられているのに、それを感謝することもせず、つぶやいてしまうようなことが他にもなかっただろうか?と考えさせられました。

「なぜこんな試練に遭わなければならないのか」

「こんな経験に何の意味があるのか」…等など。

そんな気持ちにさせられる辛い出来事にも、後にならなければ分からない大切な意味や、神様のご計画が隠されているのかもしれません。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。

天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

(旧約聖書 イザヤ55:8~11 新共同訳)

容赦なく降り続く雨や雪のような試練も、決して無駄になることがないばかりか、私たちの人生に潤いを与え、実りをもたらす恵みになるのだという神様の約束です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、片倉城跡公園の菖蒲田です。数週間前よりも花が開きました。