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種を蒔け

 

今週、2人の方の葬儀に出席する機会がありました。葬儀には、故人の生きてこられた歩みが凝縮されていると常々感じています。私は故人の人生の歩みのすべてを知っているわけでは決してありません。しかし、そこに集まった人たちの言葉や思い、流される涙、そして長年の歩みの中で刻まれてきた年輪のようなものが、その方の命の重みとして伝わってくるのを、葬儀に出席する度に感じます。

「一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」(ジェラール・シャンドリ)

これは、クリスチャン作家の故・三浦綾子さんが、その作品『続・氷点』の中で紹介している言葉です。「集めたものではなく、与えたものこそが残る」とは、実に考えさせられる、人生の真実を切り取った言葉であると思います。

葬儀に出席する度に、この言葉が心の中に思い出されます。故人が遺されたものを自分は受け取っただろうか?そして、自分は「集めること」より「与えること」に、心を用いて生きているだろうか?と考えさせられます。

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。

(旧約聖書 コヘレトの言葉11:6 新共同訳)

聖書は私たちに「種を蒔け」と語りかけています。あなたは今、どんな種を蒔いて生きておられるでしょうか?

大切な方としばしのお別れをされたご遺族の上に、イエス様からの慰めと平安が豊かに注がれますように、心よりお祈りいたします。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160220種を蒔け

※早春の海。茨城県日立市小貝浜で。(撮影:伊藤穣)

石を投げる資格

姦通の現場に踏み込まれ、捕えられた女性がイエス様のところに引きずり出されました。人々はイエス様を訴える口実を得ようとして、「律法ではこのような女は石で打ち殺せと言われているが、あなたはどう考えますか?」と迫りました。

誰かの隠されていた悪事や不祥事が白日のもとにさらされるとき、私たちは自分自身を裁判官であるかのように思い込み、その人を非難・攻撃します。2000年前のユダヤの人々も、現在の私たちも、人間の本質は変わらないのだと強く感じます。

イエス様はそんな彼らにこうお答えになりました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書8:7 新共同訳)

そのとき、イエス様は地面に何かを書いておられました(エレン・ホワイトは、訴えてきた人々の隠された罪をそこに書いておられた、と述べています)。訳知り顔で誰かを断罪し、非難するとき、私たちは自分の犯してきた罪を忘れています。しかし自分自身も人知れず罪を犯し、過ちを繰り返してきたことを思い返すとき、自分には誰かに石を投げる資格はないのだという事実を突きつけられるのです。

誰かに対して、思わず石を握りしめてしまうようなとき、先のイエス様の言葉を思い出し、「私のこの手は、誰かに石を投げるためにあるのか?それとももっと他のことをするためにあるのか?」と、考えてみたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160213石を投げる資格

※雪の朝。八王子市つどいの森公園で。

青春の日々にこそ

長男の卒業プログラムに出席するため、広島三育学院に行ってきました。広島三育学院の卒業プログラムは、金曜夜の卒業献身会・土曜日の卒業礼拝・日曜日の卒業式と3日続けて行われます。土曜日の礼拝の後にはバプテスマ式が行われました。当初2名の3年生がバプテスマを受けると発表されていましたが、当日朝に一人加わって、3名の3年生が、そしてさらに土曜日の夜に急遽1名の3年生がバプテスマを受けました。

20160130青春の日々にこそ卒業式の前日にバプテスマを受けた4人には、それぞれの迷いや悩み、心の中の戦いがあったことでしょう。急遽決まった夜のバプテスマ式も、本人は以前からバプテスマを希望していながら、ようやく保護者の了解が得られてこのタイミングでのバプテスマになったということでした。

「○○くんがバプテスマを受けることになりました!」という発表がされたときには、大きな喜びと感謝の拍手が全校生徒から湧き起こりました。雪が舞う中の式になりましたが、心の中が熱くなるひとときでした。


 

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

(旧約聖書 コヘレトの言葉12:1,2 新共同訳)


 

悩みや葛藤、様々な試練を経験した高校生活の中で、創造主と出会い、一生従っていくことを決断した彼らが、天の御国に入る日まで、すべての誘惑や災いから守られて信仰を守り通すことができるように祈りたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、安息日礼拝後のバプテスマ式の様子です。

創造主のもとへ

昨年11月に購入したタブレットが、今週突然故障しました。落としたりぶつけたりしたわけでもなかったのですが、いきなり画面がはがれてしまったのです。購入したお店や携帯電話会社、製造メーカーの窓口などに問い合わせた結果、修理のために製造メーカーに引き取ってもらうことになりました。

私たちの身の回りには、様々な電気製品がありますが、それぞれの製品を一番よく知っているのは製造者です。製造者こそが、つくられたものを直し、もう一度蘇らすことができるのです。これは電気製品のみならず、私たち人間にもそのまま当てはまることです。

聖書は、私たち人間が神様によって造られた者であると教えています。神様が私を、目的と役割を持って創造されたのです。そのことを知らなくても生きていくことはできるかもしれません。しかし、電気製品が故障することがあるように、私たちの人生にも様々なトラブルが発生することがあります。そんなときこそが、私たちが創造者である神様に立ちかえるチャンスなのかもしれません。

だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4:19 新共同訳)

苦しみの中で、自分自身をすべてゆだねることのできる真実なお方がおられるのだということを覚えたいと思います。苦しみの中にある方が、その苦しみの中で真実な創造者である神様と出会うことができるように、心から祈ります。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160123創造主に自分の魂をゆだねなさい

  • 景信山頂からのぞむ都内の風景です。自然の中で、身も心もリフレッシュさせられます。

あきらめきれない思い

「人生あきらめが肝心」…これは真実でしょうか?

自分がこだわっていたものを手放し、「あきらめる」ことで見えてくる物や気づくことがあります。

逆に、あきらめずに努力を続けることでしか手に入れられないものがあるでしょう。

「人生あきらめが肝心」は、ケースバイケースなのかもしれません。

真実の愛を示し続けた神様に背き続けた人間の姿が、聖書には繰り返し記録されています。


 

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

(旧約聖書 ホセア書11:8 新共同訳)


 

神様は、ご自分を裏切り、背を向け続けた者たちに対して「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(旧約聖書 エゼキエル33:11 新共同訳)と言われるのです。そこには「あきらめ」が入る余地はありません。神様は人間をあきらめられない。神様は私を、そしてあなたを決してあきらめることができないほどに愛しておられるのです。

KC4I0009

私はひどい自己嫌悪にさいなまれ、自分自身をあきらめたくなってしまったことがこれまでに何度もありました。でも、こんな私のことさえあきらめずに、愛と忍耐を持って導き、見守ってくださるお方がいるのだという聖書の約束にどれだけ励まされ、力づけられたことでしょう。「もう一度頑張ってみよう」と思える力が自分の内に枯渇してしまうようなとき、私を決してあきらめられない神様に心を向けたいと思います。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、夜明け前の甲府盆地と富士山です。