ショートメッセージ」カテゴリーアーカイブ

収穫の季節に

田舎育ちのせいでしょうか。私は田んぼの風景が好きです。一面に水をたたえた田植え直後の田んぼ。真夏の生命力にあふれる緑色に染まった田んぼ。収穫間近の豊かに実った稲が並ぶ秋の田んぼ…。季節20151031収穫の季節にによって様々な表情を楽しませてくれる田んぼの風景が好きです。

先日、実家の近くを散歩していると、収穫を終えた田んぼの風景が広がっていました。今年のすべての働きを終えた田んぼに「今年もお疲れさまでした」と声をかけたくなりました。

今年もスーパーの店頭に新米が並ぶ季節になりました。お金を払えば当たり前のように美味しいお米を手に入れることが出来るわけですが、春に植えられた稲が、害虫や水害・日照りや台風から守られて収穫に至るには、並々ならぬ生産者の皆さんの苦労や祈りがあってのことなのだと、秋の田んぼを眺めながら改めて考えさせられました。

今年の11月は、「全日本15バプテスマ月間」ということで、全国の多くの教会でバプテスマ式が予定されています。丹精込めた多くの働きと自然の恵みがあって農作物が収穫に至るように、一人の人がイエス様と出会い、イエス様を受け入れる決心をするには、どれほど多くの熱い祈りと、聖霊の神様の働きがあったことでしょう。


 

しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。

(新約聖書 ヨハネによる福音書4:35,36 口語訳)


 

 

 

収穫のために働き、祈り、共に喜ぶ者となりたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう

東京近郊の数名の牧師で北浦三育中学校を訪問しました。一泊二日の限られた時間でしたが、礼拝や授業を担当したり、生徒や先生方、一緒に訪問した牧師たち、日ごろなかなか話す機会のない人たちと交わり、有意義な時間を過ごすことが出来ました。

お互いの働きの喜びや苦労、抱えている重荷を分かち合う時間を過ごしたことで、自然と「自分もまた思いを新たに頑張ろう!」という気持ちになりました。

人の話を聞いたり、自分の話を人に聞いてもらったりしても、自分の前に立ちはだかっている問題の大きさ自体は変わりません。しかし、「自分だけが苦労しているんじゃない」「自分のことを理解して応援してくれる人がいる」「自分は一人じゃないんだ」という事実に気付くことで、もう一度立ち上がる元気をもらえるんだなあと感じました。


 

神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

(旧約聖書 創世記2:18 新改訳)


 

20151024わたしは彼のためにこれはアダムに妻エバを与えようとして言われた神様の言葉です。私たち人間が一人では生きられない、助け手を必要とする存在であるということは、結婚生活だけに限定されることのない人間の現実です。

神様が、そんな私のためにふさわしい助け手を備えていてくださる。行き詰まりや不安の中にある私たちへの聖書の約束です。家族や友人、職場や教会の仲間など、私たちはたくさんの人の中で生かされています。その中で自分に与えられている助け手に感謝し、自分もまた、誰かの助け手としての役割を果たしていきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

すべての民の祈りの家と呼ばれる

以前働いていた教会でのことです。その教会は公立中学校に隣接した場所に建っていましたので、校舎からはいつも元気な中学生の声が聞こえてきていました。ある日、教会の呼び鈴が鳴ったので急いで玄関に行くと、一人の中学生が立っていました。「礼拝堂でお祈りをさせてもらってもいいですか?」と言うので早速礼拝堂に案内すると、彼はそこに座って一生懸命に祈り始めました。お祈りが終わって帰るとき「何かあったの?」と声をかけると、「高校の受験が近づいて来たり、他にもいろいろ辛いことがあったのでお祈りしたい気持ちだったんです。」と話してくれました。その場所に教会が建っていること、そして中学生がその教会に祈るために来てくれたことがとても嬉しかったのを覚えています。

教会は、いつもそこに集まって来るクリスチャンだけの建物ではありません。イエス様は言われました。


「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

(新約聖書 マルコによる福音書11:17 新改訳)


20151017すべての民の祈りの家と呼ばれる教会という場所が、教会員だけでなく、ご近所に住む人やそこを通りかかった人たち、日ごろなかなか教会に来る機会のない人たちにとっても、何かがあったとき(あるいは何もなくても)そこに足を運び、神様に祈り、心を静められる場所であったら何と素晴らしいことでしょうか。教会が「すべての民の祈りの家と呼ばれる」場所へと成長していくように願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

祈りが聞かれたとき

「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」

(新約聖書 使徒言行録12:5 新共同訳)

初代教会に恐ろしい迫害の手が伸びていました。使徒ヤコブは剣で殺され、ペテロも投獄されました。人々は教会に集まり、ペテロのための必死の祈りがささげられていました。

ペテロがいよいよヘロデ王の前に引き出される前夜、神様は天使を遣わしてペテロを牢屋から救い出されました。祈りが聞かれたのです。自由の身となったペテロは、仲間たちが集まっていた家の戸を叩きました。その家の女中がペテロが牢屋から解放され、いま、戸の前に立っていることを祈っていた人々に告げました。それを聞いた彼らの反応はどのようなものだったでしょうか?

「人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言った』(同12:15)。

ペテロが守られるように、解放されるようにと心を合わせて祈っていながら、まさにその祈りが最高の形で聞かれたのに、その知らせを信じることができなかった人たち。そのニュースを伝えてくれた人に「あなたは気が変になっている」と言ってしまった人たち。彼らのその反応に、私は自分自身の不信仰を見せられる思いがします。信じて真剣に祈っているつもりなのに、その祈りに神様が応えて下さることをどれだけ本気で信じ切れているだろうか…?

神様を信じていながらも、目の前の状況の厳しさゆえに、心の中に疑いが入り込んでしまう弱さを私たちは持っています。幼い子どもが親の言葉や約束を全く疑わずに信じるように、私たちも神様への揺るぎない信頼を持って祈り続ける者となりたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20151010祈りが聞かれたとき

あなたの傷を癒す主

久しぶりに山歩きがしたくなり、陣馬山に登ってきました。陣馬山は標高857メートルとそれほど高い山ではありませんが、山の自然を楽しむことが出来ました。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」これは徳川家康が残した言葉だと言われていますが、確かに旅と人生にはいくつかの共通点があります。2015-09-28 11.01.57

一歩一歩順調に進むときがあれば、壁に直面し、頑張ってもなかなか先に進めず、出発点に逆戻りしてしまったように感じる日もあります。自分の弱さに泣く日があれば、世間の冷たい逆風に苦しめられることもあります。しかし、困難を乗り越えて目的地にたどり着いたとき、大きな達成感と喜びを体験することが出来ます。

聖書の次の言葉に、とても心励まされたことがありました。


 

さあ、わたしがお前の傷を治し/打ち傷をいやそう、と主は言われる。人々はお前を、「追い出された者」と呼び/「相手にされないシオン」と言っているが。主はこう言われる。見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し/その住む所を憐れむ。都は廃虚の丘の上に建てられ/城郭はあるべき姿に再建される。

(旧約聖書 エレミヤ30:17,18 新共同訳)


20151003打ち傷を癒される主傷がなかなか癒えず、周囲からの様々な声に苦しむときも、神様は私たちの癒しと回復を願い、そのために働いていてくださるのだという、神様の真実に心励まされます。出口がなかなか見えてこない試練や、困難のただ中にあっても、目の前の現実だけに心を向けるのでなく、信仰によって、それらの現実の向こう側にある神様の真実にすがるとき、心にスッと光が射してくるような希望を受け取ることが出来るのではないでしょうか。人生の厳しい山道を進んでいるあなたが、神様の言葉に力づけられて、無事に目的地にたどり着くことが出来ますように。

 

※写真:陣馬山登山道で。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋