ショートメッセージ」カテゴリーアーカイブ

野の草でさえ

イエス様は言われました。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」

(新約聖書マタイによる福音書6:27 新共同訳)

「悩まないで生きていきたい」だれもがそう願いますが、実際にはわたしたちの生活、人生には悩みがたくさんあります。若者には若者の、そして高齢者には高齢者の悩みがあります。生きている限り、悩みは尽きないものなのかもしれません。

先の言葉に続けて、イエス様は次のように言われました。

「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」

(マタイによる福音書6:28~30)

人生の重荷にあえぐとき、その重荷が奇跡的に取り去られることはないかもしれません。しかし、途方に暮れて足元に目を落としたとき、そこに咲く一輪の花から目の前の現実を生き抜いていくヒントや立ち上がる力が与えられるのだとイエス様のこの言葉は教えてくれます。一輪の花に命を与え、美しく装ってくださる神様が、わたしの人生に何をしてくださるのか期待しつつ歩んでいきたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20150822野の草でさえ①※写真①:実家の花壇に父が植えた花です。久しぶりの雨が降り、花も元気を取り戻したようです。

 

 

 

 

 

 

20150822野の草でさえ②

 

※写真②:北アルプス燕岳のコマクサです。種が落ちてから花が咲くまで13年もかかるそうです(撮影:小野寺法子)。

平和

今年も8月15日がやってきました。今年は特に終戦から70年の節目の年であるということ、また安全保障関連法案が審議されていることもあり、「平和」について特に考えさせられる夏になっています。

新共同訳聖書を調べてみると、「平和」という言葉が、旧新約合わせて218回使われています。「平和」は、聖書の中心的なメッセージだと言えるでしょう。

「平和」と訳されている「シャローム」(ヘブル語)と言う言葉は、単に戦争がない状態を指すだけでなく、平安・繁栄・健康・和解などの意味を含んでいます。

1945年8月15日に戦争が終わって以来70年、日本は戦争を体験していません。しかし戦争はなかったとしても、この70年が本当の意味で「シャローム」ではなかったことをわたしたちは知っています。

本当の平和は、ただ神からのみもたらされるものであり、それはキリストの再臨によって完全に実現されるものであることを覚えたいと思います。そして、わたしも自分が置かれた場所で「平和を実現する者」として生きていきたいと願っています。

【「平和」についての聖書の言葉】(いずれも新共同訳)

「平和を実現する人々は、幸いである」マタイによる福音書5:9

「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」ルカによる福音書10:5

「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ルカによる福音書24:36

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ヨハネによる福音書14:27

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

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※写真は、先日訪れた沖縄県今帰仁村の海です。

すべての人を照らすまことの光

7月30日~8月2日の4日間、沖縄で全日本青年大会が開催され、国内外から120名が集まりました。わたし自身は「青年」という年齢はすっかり超えているのですが、スタッフとして青年大会に参加させていただきました。

大会のテーマ聖句は、ヨハネによる福音書の次の聖句でした。


 

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

(新約聖書 ヨハネによる福音書1:9 新共同訳)


 

毎日の礼拝やセミナーなどを通して、すべての人を照らすために来てくださったまことの光であるイエス・キリストについて、そしてわたしたちがいかにして世の光としてイエス・キリストの光を輝かすことが出来るのかを学び、分かち合いました。安息日には参加者120名がグループに分かれ、沖縄県内16箇所の教会を訪問しました。教会の皆さんがあたたかく迎えてくださり、また青年たちの生きた証しを聞くことでたくさんの祝福をいただく安息日になりました。

最終日の夜には、献身会がもたれました。4日間自分が受けたこと、学んだことを振り返りながら具体的に自分が置かれた場所で何を始めることが出来るのかを考えました。献身会の最後にはキャンドルサービスをしました。小さなろうそくの光が少しずつ伝わり、拡がっていくように私たちもイエス様の光を周囲に伝える小さな光として生きていきたい、その思いを新たにさせられました。

IMG_20150806_202232青年大会は終わりましたが、神様によって集められた一人ひとりが、それぞれの場所でイエス様の光を現わし続けるよう祈ります。

甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

 

※写真は、献身会のキャンドルサービスの様子です(撮影:パラコル・マービン)

意味を知る

30657健康のため、散歩をしています。朝の涼しい時間に、あるときには駅までの移動など、少しの時間でも歩くことで心身ともにスッキリすることが出来ます。

何事も長続きしないわたしに、散歩をするための動機付けを与えてくれるのが、歩数計です。歩数計そのものに運動効率を高めたり、体を健康にする力があるわけではないのですが、歩数計をつけて生活することで「あと少しで今日も1万歩だ。もう少し歩いてこよう」というように、今日一日何歩歩いたのか(だいたい何キロ歩いてそれくらいのカロリーを消費したのかなど)が分かることで、体を動かすことに前向きな気持ちになることが出来ます。

スポーツ選手は厳しいトレーニングに耐えます。そのトレーニングに意味があることを知っているからです。人は意味のある苦しみには耐えられます。しかし、意味や価値の見えない試練は本当に苦しいものです。「なんでこんな目に遭うのか」「この苦しみにどんな意味があるのか」等など…。

試練の中で折にかなって与えられる聖書の言葉は、歩数計のように、自分が遭遇している苦しみの意味を教えてくれます。そのときにすべてを理解できなくとも、神様が目的と計画をもって自分の人生を導いていてくださる、という安心感をもって生きることができるのです。


神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

(新約聖書 ローマ人への手紙8:28 口語訳)


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※写真は、全日本青年大会(7月30日~8月3日)が開催されている沖縄県金武町の「ネイチャーみらい館」の様子です(撮影 金雅映)。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

牧師 伊藤 滋

答え合わせの時間

兼任の八王子教会で、今年も夏休み聖書学校がもたれました。今年はゲームの時間に「追跡ミニ探検」をしました。

「追跡ミニ探検」とは、数人ずつのグループに分かれ、用意された「指令書」(コースの手がかりになる写真が掲載されているプリント)を元に、教会の近くの定められたコースを歩きながら全11問の質問に答えるというゲームです。

最初の問題は割と簡単でしたが、その後は難問が続き、同じグループの子どもたちと頭を抱えながらコースを回りました。最後まで答えが分からなかった問題がいくつかあり、悔しくてすっきりしない気持ちを抱えてゴールしました。20150725答え合わせの時間HP②

 

全員が教会に戻り、先生が「答え合わせ」をしてくれました。

先生が「この問題の答えが分かった人?」と聞くと、正解がわかった人たちは自信たっぷりに「はい!」と答えます。あれだけ考えたのに答えが分からなかった人たちも、正解が発表されると「なるほど!」「そうだったのか!」という反応でした。

 

私はこの「追跡ミニ探検」は、少し大げさかもしれないけど、人生の縮図のように感じました。

私たちも、それぞれの人生の中で、たくさんの「問題」が出題されます。

答えがすぐに分かるものもあれば、どんなに考えてもそのときには答えが分からない問題もたくさんあります。

でも、「答え合わせ」のときが用意されていて、そのとき、自分が経験した出来事の本当の意味を知ることが出来る。聖書の中に使徒ペテロの次のような言葉があります。


 

「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして…わたしを救い出してくださったのだ」

(新約聖書 使徒言行録12:11 新共同訳)


 

悩み、苦しみ、病、理不尽・不条理に感じられる様々な現実…それらの意味が明らかにされて「今、初めて本当のことが分かった!」と神様に感謝することのできる日が一日も早く来ますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

※昼食はみんなで流しそうめんを楽しみました。

 

20150725答え合わせの時間HP①