ショートメッセージ」カテゴリーアーカイブ

木には希望がある

桜前線が日本列島を北上中です。桜の季節になると思い出される一本の木があります。

それは以前住んでいた家からほど近い、亀甲山教会の裏の竹林の中に立つ桜の古木です。周囲を孟宗竹に囲まれて肩身が狭そうに、それでも大地にしっかりと根をおろして立っています。

亀甲山の春の楽しみのひとつはタケノコ掘りです。タケノコが傷つかないようにていねいに掘り出すのは、結構骨の折れる作業です。タケノコ掘りをして気持ち良い汗をかいてひと休みするとき、この桜の木の下に腰をおろして桜の花を見上げるのが楽しみでした。

桜が咲く季節、「桜の名所」と呼ばれる場所には花見客が集まり、桜の木々はライトアップされたります。そのように人々の注目を集める桜の木々がある一方で、この亀甲山の竹林の桜は、ほとんど誰にも見られることもなく、それでも毎年必ずきれいな花を咲かせます。私はこの桜の古木に、誰に見られていても、あるいは見られていなくても、自分が置かれた場所で地に根をおろして生きることの尊さを教えられたような気がします。

20150404木には望みがある

 


 

木には望みがある。

たとい切られてもまた芽をだし、

その若枝は絶えることがない。

(旧約聖書 ヨブ記14:7 口語訳)


 

十字架の上でその命を「切られても」よみがえり、私たちに永遠の命に至る信仰の芽を分け与えてくださったイエス様に、いつもつながっていたい。そしてイエス様によって植えられた場所で、しっかりと根をおろして生きる者でありたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※亀甲山教会は、神奈川県横浜市旭区にあるセブンスデー・アドベンチストの教会です。

自分の心を守れ

1月から3月まで、私たちの教会では旧約聖書の「箴言」から学びました。「箴言」には考えさせられる言葉がたくさんありましたが、私が一番心に残ったのは次の言葉でした。


 

20150328自分の心を守れ何を守るよりも、自分の心を守れ。

そこに命の源がある。

曲がった言葉をあなたの口から退け

ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

目をまっすぐ前に注げ。

あなたに対しているものに

まなざしを正しく向けよ。

(旧約聖書 箴言4:23~25 新共同訳)

 


「自分の心を守る」とは、自分本位に生きることではありません。自分に都合の悪いことに目を閉ざすことでもありません。私たちは時として目の前にある現実の厳しさのゆえに、それを直視するのが辛くなってしまうことがあります。しかし箴言は、「曲がった言葉・ひねくれた言葉を捨てて、目をまっすぐ前に注げ」と教えています。

あなたは「自分の心を守る」ための時間を持てていますか?

「忙」という漢字は「心を亡くす」と書きます。人間は忙しさの中で自分の心を振り返る時間を失い、やがては心を失ってしまうのです。

どんな厳しい現実の中にあってもあなたの心が守られて、喜びと希望をもって毎日を過ごすことができますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

手入れをなさる主

3月10日、聖書のつどいの皆さんと、府中郷土の森公園に梅のお花見に行ってきました。

公園内には約60種類・1100本の梅が植えられていて、訪れる人たちの目を楽しませてくれます。

20150321手入れをなさる主梅の花を眺めながらお弁当をいただき、その後ゆっくりと園内を散策して梅林の眺めや香りを楽しむことが出来ました。

間もなく梅の花の見頃は終わり、桜の開花の季節を迎えようとしています。美しく花が咲く時期、花見の名所にはたくさんの人が集まります。

しかし、その陰で人知れず木の管理・手入れをしている方々がおられるということ、そしてこれだけの梅林や公園に植えられた植物の管理にはどれほどの苦労があるのだろうかと、考えさせられました。

 


わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。

しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

(新約聖書 ヨハネによる福音書15:1,2 新共同訳)


美しい花を咲かせ、豊かな実を実らせるためには樹木の手入れが不可欠であるように、私たちも神様によって「手入れをされる」ことがあります。それは自分の身を切られる、大きな痛みの伴う経験です。しかしこの痛みは、私を不幸にし、滅ぼすためのものではなく、より多くの花を咲かせ、実を残すための「手入れ」なのだと聖書は教えているのです。

「神様…。正直言うと痛いのはイヤですが…あなたが良いと思われることを行ってください。」

それがわたしの祈りです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

見よ、わたしは新しい事をなす

卒業、転勤、就職…。春は旅立ちと別れの季節です。

先日、息子が3年間学んだ中学校の卒業式に出席20150314見よ、わたしは新しい事をなす2しました。心身共に成長させていただいた我が子の姿を見て、胸が熱くなりました。そして卒業生だけでなく、保護者・在校生、先生方までもが涙を流しながら別れを惜しみ、門出をお祝いしてくれる姿を見て、またまた胸が熱くなったのでした。

かわいい子犬が、いつまでも子犬のままではないように、子どもたちも少しずつ成長して親元から巣立っていきます。それは一抹の寂しさを覚えることですが、一人一人が成長し、一人の人間として自立していくために必要なプロセスです。

卒業式の後の謝恩会で校長先生が紹介された聖書の言葉が心に響きました。


見よ、わたしは新しい事をなす。

やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。

わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

(旧約聖書 イザヤ43:19 口語訳)


「新しい事」が始まるとき、それはこれまで慣れ親しんできたものとの「別れのとき」でもあります。別れは寂しいことですが、そこから荒れ野に道が開け、さばくに水が流れるような素晴らしいことが始まるときなのです。

新しい旅立ちをする人、それを見送る人、慌ただしさの中で様々な思いが行き交う季節です。神様が与えてくださった出会いに感謝しつつ、それぞれに与えられている道をしっかりと歩んでいきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

義の太陽が昇る

木々のつぼみに、道端に咲く花に、春の訪れの近さを感じる季節になりました。

春の日差しを浴びていると、イソップ童話の「北風と太陽」を思い出します。北風が、旅人の上着を力ずくで剥ぎ取ろうと吹きつけても、彼の上着を脱がせることはできませんでしたが、太陽が昇り、あたたかな日差しを注ぐと、旅人は自分から上着を脱ぎました。

外部からの圧力や操作で人の心を変えることはできません。しかし、誰かの優しさやあたたかさに触れたとき、変えようと思っても変えることの出来なかった心が作り変えられていく、そんな経験をさせられることが確かにあるのです。


 

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには

義の太陽が昇る。

その翼にはいやす力がある。

あなたたちは牛舎の子牛のように

躍り出て跳び回る。

(旧約聖書 マラキ3:20 新共同訳)


マラキ書の「義の20150307義の太陽が昇る太陽」とは、救い主が与えられる約束の預言です。

義の太陽であるイエス様がわたしたちの人生にあたたかな日差しを注がれるとき、私たちの傷や悩みは癒されるという約束です。

厳しい冬の最中にあるとき、その約束を信じることは難しいかもしれません。しかし、空けない夜はなく、終わらない冬はないように、神様は約束されたことを必ず実現されるのだということを心の希望として歩んでゆきたいと願っています。

 

あなたの人生に、イエス様のあたたかい日差しが届きますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

  • 写真は、東京都檜原村の払沢の滝です。真冬には氷結するそうですが、春が近づき、勢いよく水が流れていました。