夜、そばに立って語られる主

気持ちが落ち込んでいるときや、困難な状況に陥っているとき、周囲からの励ましや祈りに支えられることがしばしばあります。「応援しているよ!」「あなたのために祈っているからね。」私自身、これまで何度もそのようなあたたかい言葉に励まされ、立ち上がることが出来ました。

しばらく前になりますが、様々な思いわずらいに心が押しつぶされそうになり、自分の部屋からなかなか出られない日がありました。そんな朝、憂うつな気持ちを必死に振り払うように聖書を開くと、次の言葉が与えられました。


 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

(新約聖書 使徒言行録23:11 新共同訳)


私たちの主は、私が夜(お先真っ暗な状況)を過ごしているときにこそ、そんな私のそばに立って、優しくそして力強く語りかけてくださる方であることを、私は体験しました。その日、不安な

気持ちになることもありましたが、その朝与えられた聖書の言葉に勇気づけられて(「勇気を出せ!」と自分に言い聞かせながら)、一日を乗り切ることが出来ました。

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私たちが力を失っているとき、周囲の人の支えによってそこから立ち上がることができるのは本当に素晴らしいことです。しかし、誰からの助けも得られず、「自分は孤独だ!」と絶望させられるようなときに、神様から自分に語られた言葉によって力を得、立ち上がることのできる人はさらに幸いな人ではないでしょうか?使徒パウロを困難の中で前進させ続けたのは、そのような上からの力でした。私は人から慰めや励ましの声を聞く以上の真剣さと期待感をもって、神様の声に耳を傾けているだろうか?そう自問させられた一日でした。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。

「世界終末時計」という言葉をご存じでしょうか?

「世界終末時計」とは、核戦争などによる人類の絶滅(終末)を午前0時になぞらえ、その終末までの残り時間を「零時まであと何分」という形で象徴的に示す時計である。実際の動く時計ではなく、一般的に時計の45分から正時までの部分を切り出した絵で表される。(wikipediaより)

この「時計」によれば、これまで最も時計の針が進んだのは米ソが相次いで水爆実験に成功した1953年の2分前、もっとも戻ったのはソ連崩壊により冷戦が終結した1991年の17分前でした。

ちなみに現在2017年の時計の針は、2分30秒前、これは、ドナルド・トランプ米大統領が核廃絶や気候変動対策に対して消極的な発言によるものだということです。

世界中がこの世界の、人類の将来について危機感を抱いている時代に私たちは生かされています。聖書にはどのように書かれているでしょうか。


 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。

(新約聖書 Ⅰテサロニケ5:1~4 新共同訳)


以前、防災の研修に出席した際に「正当にこわがる」という言葉を聞きました。私はこの言葉を、根拠のない過剰な安心感を持つこと・必要以上に悲観的になってパニックになることを戒めた言葉だと理解しています。「世界の終末が近い」と言われると、心が騒ぎます。しかし、聖書は「あなたがたは暗闇の中にいるのではない。」と約束してくださいました。神様が私たちに与えてくださった聖書の言葉に立ち返りつつ、今という時代をしっかり見定めて生きていきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

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※夜明け前の空。立川市にて。

あなたの安全な場所から出てきなさい

イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。

(新約聖書ルカによる福音書19:5,6 口語訳)


ザアカイは社会の嫌われ者でした。お金は持っていましたが、友だちはいませんでした。「取税人のかしら」という職業・社会的な地位はありましたが、一旦職場を離れれば、彼は孤独でした。そんな彼でしたが、イエス様についてのうわさを聞き、直接イエス様に会いたい、話しを聞いてみたいという気持ちになりました。嫌われ者のザアカイが、人だかりの中にいるイエス様に会いに行くというのは大きなリスクの伴うことでした。「お前のような男が来る場所じゃない。帰れ!」などと人々から冷たい言葉を浴びせられたかもしれません。しかし、彼はイエス様のもとに行くことを選びました。

神様はしばしば、私たち人間に「あなたの安全な場所から出てきなさい」と呼びかけられます。「信仰の父」と呼ばれたアブラハムは、神様の言葉に従って、行き先も知らずに旅に出ました。イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセは、静かに羊飼いをしていましたが、神様の命令に従ってエジプトに戻り、民をエジプトから導き出しました。イエス様の弟子たちは、「わたしに従って来なさい」というイエス様の声を聞いたとき、自分の仕事を捨てて立ち上がりました。

私たちは誰でも、「自分の安全な場所」に留まりたいと思います。そこにいれば、当面の安心は保証されてい

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るからです。私たちが神様に本気で従おうとするとき、神様はしばしば「あなたの安全な場所から一歩踏み出しなさい」と呼びかけられます。ザアカイが、彼の「安全な場所」から一歩踏み出したとき、彼はイエス様と出会い、彼の人生は全く違うものになりました。

2017年が始まって早くも1カ月が過ぎようとしています。今年、もしも神様からの呼びかけを聞いたなら、信仰をもって「一歩」を踏み出してみませんか?きっと安全な場所にいては見えなかった景色を見ることができることでしょう。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、高尾・駒木野庭園のロウバイです。

10日間の祈祷

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。

(新約聖書 ルカによる福音書18:1 口語訳)


この聖書の言葉は私たちに、時として祈りには失望が付きまとうものであることを教えています。私たちが失望させられるのはどんなときでしょうか?多くの場合、それは期待が裏切られたとき、自分が望み、予想していた結果が得られなかったときではないでしょうか。

イエス様が「失望せずに常に祈るべきことを教え」るために人々に語られたのは、「やもめと裁判官のたとえ」というたとえ話でした。ひどい裁判官がいました。最終的に彼は、やもめの訴えを聞き入れ、彼女のために裁判をするのですが、その理由は「しつこくてかなわないから」というものでした。「ひどい裁判官であっても、諦めずに訴え続ける人の声には耳を傾ける。ましてや、愛の神が、あなたがたの心からの祈りに答えないはずはないだろう」とイエス様は言われるのです。


 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

(新約聖書 ローマ人への手紙10:11 口語訳)


私たちの教会では、現在「10日間の祈り」の集会を持っています。私たち自身の中には、そして私たちの周2017012110日間の祈祷りにもたくさんの祈りの課題があります。祈りなしには希望を見いだせないような苦しみがそこにあることを私たちは知っています。祈っても自分が期待している答えがなかなか得られないとき、私たちは失望しがちです。しかし、神様を信じること、神様に祈ることを諦めないで祈り続けるものでありたいと願っています。私たちは一人では難しいことも、仲間と共に励まし合うことで続けることが出来ます。今週私はこの集会で、何度も励まされました。あなたもこの「10日間の祈り」に加わってみませんか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は昨年11月、韓国チェジュ島のリーダーシップトレーニングセンターで。

目標を目指して

先日、ある方から「4月9日に開催されるマラソン大会に出ませ20170114目標を目指してんか?」とお誘いを頂きました。少し迷ったのですが、思い切ってハーフマラソンの部にエントリーすることにしました。これは私にとって今年の大きなチャレンジです!

これまでも出来るだけ毎日時間を見つけてジョギングしてきたのですが、「4月9日にハーフマラソンを走る」という具体的な目標が出来たことで、毎日のジョギングに取り組むモチベーションが大いに高められました。「目標を持つ」ということは大切だと改めて実感しています。

韓国での研修の英語のクラスで「あなたの計画、夢は何ですか?」というテーマでクラスメートと語り合う時間がありました。この歳になると、「夢を目指す」よりも「日々の現実を生きる」ことに精一杯で、改めて「自分の夢って何だっけ?」と考えさせられました。そして、クラスメートが少年のように目を輝かせながら、自分の夢について語る姿に大いに刺激を受けました。「夢を持つ」ことは大切だと改めて実感しました。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

(新約聖書 ヘブル人への手紙11:13,14 口語訳)

 わたしたちは今、天の家路についています。わたしたちのために命を投げ出すほどに愛してくださった主は、都を用意してくださっているのです。新しい都エルサレムは私たちの憩いと休息の場所、帰るべき家です。

(エレン・ホワイト『天つ家郷』より)

聖書は私たちに「究極の目的地」を約束しています。私はこの目的地である天国を目指していることを、忘れずに日々を生きたいと願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は朝のジョギングコースからの日の出です。