涙の道・感謝の道

11月20日から12月7日まで、韓国チェジュ島のリーダーシップトレーニングセンターで行われた研修に参加してきました。韓国・中国・台湾・モンゴル・そして日本から牧師や教会リーダーが28名ほど集まり、英語とリーダーシップの研修を受けました。自ら希望しての参加だったにもかかわらず、出発が迫って来ると気が重くなり、大きな不安をかかえて研修が始まりました。

朝夕の礼拝、英語とリーダーシップの授業、運動やグループワーク、夜の振り返りの時間(もちろんすべて英語)など盛りだくさんのプログラムで、あっという間に時間が過ぎていきました。

英語のできない私にとって英語漬けの生活はとても辛いものでしたが、励まし合える仲間や心から信頼できる先生方やスタッフに支えられて、本当に恵まれた17日間を過ごすことが出来ました。


涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

(旧約聖書 詩編126:5,6 新共同訳聖書)


私たちの人生には「泣きながら出て行く」しかないような厳しい場面があります。しかし、その泣きながら歩いた道を、「喜びの歌を歌いながら帰ってくる」日が来るのだと聖書は私たちに約束しているのです。

出発時、泣きたい気持ちで出て行った道を、神様への感謝で心が満たされる思いで帰ってきました。共に学び、祈り合った仲間たちと、それぞれが神様から置かれた場所で支え合っていきたいと思っています。いま、「涙の道」を歩んでおられる方に、特別な神様の守りと祝福が注がれますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161210%e6%b6%99%e3%81%ae%e9%81%93%e3%83%bb%e6%84%9f%e8%ac%9d%e3%81%ae%e9%81%93

※写真は、解散の朝、最初のグループの出発前にみんなでお祈りしている様子です(12月7日撮影)。

待ち望む人

イエス様誕生の場面にシメオンとアンナという2人の老人が登場します。彼らはいずれも信仰熱く、神様に忠実に生きてきた人たちでした。彼らは約束の救い主、イエス様の誕生という歴史的な出来事の証人となりました。

シメオンとアンナについて、ルカによる福音書2章に記録されています。その箇所を読んでみると、この2人に共通する一つのキーワードがあることに気づかされます。


  • シメオン:「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた」(25節)。
  • アンナ:「この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた」(38節)。

(下線は筆者)


シメオンは自分だけでなく、イスラエル全体が慰められるのを待ち望む人でした。そしてアンナも、約束の救い主と出会ったとき、その喜びの知らせを、救いを待ち望む人々に語り伝えました。

彼らはいずれも「待ち望む人」でありました。過去にとらわれ、将来を見通せなくなるのではなく、神の約束を信仰によってしっかりと握りしめ、約束の実現を待ち望んでいたのです。

旧約聖書イザヤ書にこのような言葉があります。


 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

(旧約聖書 イザヤ40:31 口語訳)


クリスマスが近づいてきました。救い主の誕生を待ち望みつつ、他者を祝福する豊かな生き方をした2人の信仰者に倣う者となりたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161203%e5%be%85%e3%81%a1%e6%9c%9b%e3%82%80%e4%ba%ba

※写真は広島三育学院高校チャペルの十字架と朝焼けです(10月31日撮影)。

なおりたいのか

さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

(新約聖書 ヨハネによる福音書5:5~8 口語訳)


「病気の人に、しかも40年近くも苦しんできた人に『なおりたいのか』って、ちょっと無神経すぎる質問じゃないか?なおりたいに決まっているじゃないか。」

私はこの箇所を読むたびに、そう思っていました。

しかしあるときから、このイエス様の言葉が鋭く心に迫って来るように感じられるようになったのです。

うつ病になって仕事を休職し、なかなか職場復帰できずに過ごしていた時期のことです。なかなか復職できないことに焦りを覚え、「早く治りたい」という気持ちになる反面、「病気で休んでいる生活」に居心地の良さを覚え、色んな言い訳を探しながら(時に周囲に責任転嫁しながら)、「病」を自分の殻にしてそこに閉じこもろうとしている自分に気づかされたのは、そのころふと開いた聖書の中に、イエス様のこの言葉を見つけたときでした。 20161126%e3%81%aa%e3%81%8a%e3%82%8a%e3%81%9f%e3%81%84%e3%81%ae%e3%81%8b

「あなたは本当に立ち上がりたいと思っているのか?もしそうなら、自分の足で立ち上がりなさい。」イエス様から鋭く本心を見透かされ、しかしあたたかく問いかけられているような思いになりました。

この人はその後どうなったでしょうか?「すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」(同5:9)。イエス様は私たちになすべきことを示すだけでなく、それをする力を与えてくださるお方です。あなたの立ち上がる一歩を、イエス様が支えてくださいますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は山梨県芦川町の林道の紅葉です(11月13日撮影)。

「慰め」と「励まし」

悲しみ、傷ついて力を失っている人を前にして、何もすることが出来ずに、自分の無力さに途方に暮れさせられることがしばしばあります。

作家の五木寛之さんが、その著書『大河の一滴』の中で次のように書いておられます。

孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。深いため息をつくこともそうだ。熱伝導の法則ではないけれど、手の温もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散していくこともある。

(五木寛之『大河の一滴』258ページ)

本当は「慰め」を必要としている人を、何とかして「励まそう」と躍起になってしまい、かえって傷つけてしまうという失敗をどれほど繰り返しただろうかと思います。でも、そのような場面で本当に必要とされているのは「何かをすること」よりも「共にいること」なのかもしれません。

聖書には次のように書かれています。


 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙12:15 新共同訳)


福音書を読むと、イエス様が貧しい人・病気の人たち・社会から見放された人たちに寄り添い、彼らを深く憐れまれた様子が繰り返し記録されています。イエス様は一人ひとりを大切にされました。そして、彼らの苦しみや悲しみに目を留められて、深く憐れまれました。

日々、イエス様とつながることによって、イエス様に似た者へと作り変えていただきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161119%e6%85%b0%e3%82%81%e3%81%a8%e5%8a%b1%e3%81%be%e3%81%97

※写真は、山梨県富士河口湖町新道峠からの富士山です(11月13日撮影)。

なぜですか…?

先々週の記事に車が故障したことを書きました。あの後、車の修理は完了し、何不自由なく走りまわることが出来るようになったはず…でしたが、水曜日の夕方、車のエンジンをかけようとすると、前回と同じような不具合が発生し、エンジンがかからなくなってしまいました。しばらく時間をおくとエンジンがかかったので、何とか自力で修理工場に持っていくことが出来ました。「何で2週間の間に2回も車が故障するんだ!?」とつぶやきながら…。

「神様、なぜですか?どうしてこんなことが起きるのですか?」

古今東西を問わず、苦しみの中から人間が神様に発し続けてきた問いです。

今期、私たちの教会では旧約聖書のヨブ記を学んでいます。今週のテキストにこのような文章がありました。

私たちは…ヨブのような「良い」人がなぜこの世で苦しむのかを探り続けています。しかし、ヨブ記とほかの本との決定的な違いは、ヨブ記が苦しみについて人間的な視点に立っていないという点です。むしろ、ヨブ記は聖書なので、私たちはこの問題に関する神の視点を見ます。

(『安息日学校聖書研究ガイド ヨブ記』46ページより)


あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。

(旧約聖書 ヨブ記11:7 新共同訳聖書)


これは友人ツォアルがヨブに語った言葉です。苦しみの渦中にある人に対してはいささか手厳しい言葉ではありますが、「人間はすべてを見通すことはできないのだ」ということを教えてくれる言葉であるようにも思います。

車の故障などとは比較にならないような苦難や悲しみの中で、それでもひたむきに今日という日を生きておられる方々に、神様からの希望が注がれますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20161112%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%81%a7%e3%81%99%e3%81%8b%ef%bc%9f

※今週出会った風景:山梨県北杜市大泉町付近からの八ヶ岳です。