クリスマスコンサートのお知らせ

早いもので2014年ももう12月になります。クリスマスの季節を迎えました。

甲府キリスト教会では以下の通り、クリスマスコンサートを計画しました。

日時:12月6日(土)13:30~16:00

場所:セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会

プログラム内容:

  • ソプラノ独唱:桜井京(さくらいみやこ)
  • ピアノソロ演奏:横山智一(よこやまともかず)
  • みんなで歌おう希望の讃美歌

クリスマスコンサートポスター「甲府教会Cristmas Concert 2014」はこちらから

入場無料です。

皆さまのお越しを心よりお待ちしております。

神からいただく慰めによって

「慰め」や「励まし」について、考えさせられることがあります。

私たちは、自分が苦しみの中にあるときは「誰かに慰めて欲しい」と思いますし、誰かが苦しんでいるときには「何とかして慰め、励ますことはできないか」と考えます。

しかしどうでしょうか。私が苦しみの渦中にあったとき、慰めようとしてくれた人の親切を、素直に受け取ることが出来なかったことがしばしばありました。また誰かを「慰めたい」と思っているのに、なかなかその人の気持ちに沿うことができず、かえって傷つけてしまったことさえあったように思うのです。

人が人を「慰め」「励ます」というのは、実に難しいことだと実感させられます。

「慰め」ということについて、聖書には次のような言葉があります。 20141129神からいただく慰めによって

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

コリントの信徒への手紙2・1:4

この聖書の言葉は私たちに、二つの大切なことを教えています。

  • 神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる、ということ。
  • 私たちも「神からいただく慰め」によって、苦難の中にある人々を慰めることができる、ということ。

何と素晴らしい約束でしょうか!?

「私の中から出る慰め」は人の心に力を与えることが出来ません。しかし、「神様からいただく慰め」には限界がないのです。どんな苦難の中にある人の心にも伝わり、慰める力があるというのです。

この聖書の約束を信じ、まず私自身が神様からの“この慰め”をしっかり受け取る者になりたい、と願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

わたしは山々を仰ぐ

聖書の学びの会の皆さんと箱根に行ってきました。天候に恵まれ、富士山、仙石原のススキ、ロープウェーからは芦ノ湖や大涌谷、芦ノ湖スカイラインからは夕日に輝く駿河湾など、素晴らしい景色を堪能することが出来ました。

“山”には、私たちの心を惹きつける魅力があります。人間は自分よりも圧倒的に大きな存在と向き合うときに、自らのちっぽけさを思い知り、より確かなものへと心が向けられるものなのかもしれません。

詩編に次のような言葉があります。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。20141122わたしは山々を仰ぐ

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。

(詩編121:1,2)

 

私たちの人生にも失意のうちに「山々を仰ぐ」ような場面が、「わたしの助けはいったいどこから来るのだろうか…。」と思わずため息をついてしまうような苦しみのときがあります。

以前、なかなか出口の見えない試練の中にあったとき、詩編の言葉に力づけられました。詩編は神様への「本音の言葉」が書き連ねられています。自分の苦しみ、嘆き、不安や怒りをそのままぶつけている箇所があります。そしてそれらの叫びが、やがて神様への祈り、讃美、信仰の告白へと引き上げられているのです。

いままさに、途方に暮れる思いで「わたしは山々を仰ぐ」そんな日々を過ごしている方がおられるかも知れません。

神様ご自身が、あなたの痛みを祈りに、嘆きを平安に、うめきを讃美へと引き上げてくださいますように。詩編121:1,2の言葉は、次の祈りの言葉につながっています。

どうか、主があなたを助けて

足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

(詩編121:3)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

泉から湧く水

八ヶ岳山麓で行われたウォーキング大会に参加してきました。

スタート・ゴール地点は山梨県北杜市の“三分一湧水”でした。三分一湧水は、一日に8500tもの水が湧き出る水源地です。江戸時代、下流の村々の農業用水をめぐる争いを解決するために、湧出口の分水枡に三角形の柱を設置20141115泉から湧く水 (1)して湧水を三方向に均等に分けたことが名前の由来だと言われています。

水はいつの時代にも人間が生きていく上で欠かせない大切なものです。こんこんと湧き出る豊かな湧水を見、流れの音を聞いていると心が潤され、次の聖書の言葉が思い出されました。

 

あなた自身の井戸から水を汲み

あなた自身の泉から湧く水を飲め。

その源は溢れ出て

広場に幾筋もの流れができるであろう。

箴言5:15,16

「あなた自身の井戸」、「あなた自身の泉」とは何のことでしょうか?

「お前は何から生きる力を得ているのか」「どこに水を求めて生きてきたのか」と問いかけられているようです。

一見すると魅力的で、心を楽しませ、満たしてくれそうなものが溢れている世の中ですが、どんな時代にも変わらず私たちの心を満たし、潤してくれる確かなものがどれほどあるでしょうか。

イエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書4:14)と言われました。

 

20141115泉から湧く水 (2)

イエス様が与えてくださる水、時代や状況の変化によって価値が失われることのない確かな水の源をしっかりと自分のものにするために―――日ごとに心を静めて聖書の言葉に向き合う時間を大切にしたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

足を運ぶことの意味

長男の高校のPTAに出席するため、広島に行ってきました。広島までの道のりを車で往復するのはさすがに疲れましたが、久しぶりに広島三育学院のキャンパスに行くことが出来て本当によかったです。
20141108足を運ぶことの意味
私にとって広島三育学院は母校であり、かつての職場でもありますので、懐かしいよく知った場所です。しかし、「長男が高校生活をしている広島三育学院」を 私は知りませんでしたので、今回キャンパスに足を運び、息子が高校生活を送っている姿を直に見ることが出来たのは大きな収穫でした。インターネットや携帯電話が普及して、一昔前では考えられなかったようなことが出来るようになりました。離れた場所にいても、パソコンを介して相手の顔を見ながら会話をしたり、行ったことのない街の写真や情報を集めることが簡単に出来ます。しかしどんなにIT機器が進歩しても、実際にその場に足を運び、顔と顔とを合わせて同じ時間を過ごすことの価値は変わらないでしょう。 「 ※写真は広島三育学院の正門です。(撮影:村上創) 」

むしろ、足を運ばず、顔を合わさずに用事を済ませてしまう時代だからこそ、同じ場所に集まり、顔を合わせることの意義が増しているように感じます。

今から約2000年前、イエス様はこの地上に一人の人間として降りて来てくださいました。私たちと同じ空気を吸い、同じ苦しみを味わい、共に生きてくださいました。ただ口先だけで「あなたを愛しているよ」と言うのではなく、遠くから足を運び、共に生きることで私たちに愛を示してくださったのです。イエス様こそが「足を運ぶことの意味」を身をもって示してくださったお方です。

遠くから、主はわたしに現れた。

わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し

変わることなく慈しみを注ぐ。

エレミヤ31:3

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋