「人生あきらめが肝心」…これは真実でしょうか?
自分がこだわっていたものを手放し、「あきらめる」ことで見えてくる物や気づくことがあります。
逆に、あきらめずに努力を続けることでしか手に入れられないものがあるでしょう。
「人生あきらめが肝心」は、ケースバイケースなのかもしれません。
真実の愛を示し続けた神様に背き続けた人間の姿が、聖書には繰り返し記録されています。
ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
(旧約聖書 ホセア書11:8 新共同訳)
神様は、ご自分を裏切り、背を向け続けた者たちに対して「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(旧約聖書 エゼキエル33:11 新共同訳)と言われるのです。そこには「あきらめ」が入る余地はありません。神様は人間をあきらめられない。神様は私を、そしてあなたを決してあきらめることができないほどに愛しておられるのです。
私はひどい自己嫌悪にさいなまれ、自分自身をあきらめたくなってしまったことがこれまでに何度もありました。でも、こんな私のことさえあきらめずに、愛と忍耐を持って導き、見守ってくださるお方がいるのだという聖書の約束にどれだけ励まされ、力づけられたことでしょう。「もう一度頑張ってみよう」と思える力が自分の内に枯渇してしまうようなとき、私を決してあきらめられない神様に心を向けたいと思います。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋
※写真は、夜明け前の甲府盆地と富士山です。


 私たちが信仰生活を重ねるごとに頭や心が固くなっていくのではなく、「真理によって自由にされる」とは、何と素晴らしいイエス様の約束でしょうか?
私たちが信仰生活を重ねるごとに頭や心が固くなっていくのではなく、「真理によって自由にされる」とは、何と素晴らしいイエス様の約束でしょうか?

 アフリカのある村でのことです。一人の少年がキリスト教の宣教師に、クリスマスプレゼントを贈りました。それは美しく珍しい貝殻でした。少年はこの贈り物を手に入れるために、気の遠くなるような距離を歩いて往復したのでした。宣教師は感激し、お礼を言いました。少年は答えて言いました。「あのね、先生、ずうっと歩いたこともプレゼントの一部なんだよ。」(ガイドポスト編『とっておきのクリスマス』より)
アフリカのある村でのことです。一人の少年がキリスト教の宣教師に、クリスマスプレゼントを贈りました。それは美しく珍しい貝殻でした。少年はこの贈り物を手に入れるために、気の遠くなるような距離を歩いて往復したのでした。宣教師は感激し、お礼を言いました。少年は答えて言いました。「あのね、先生、ずうっと歩いたこともプレゼントの一部なんだよ。」(ガイドポスト編『とっておきのクリスマス』より)