花開く

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

(旧約聖書 イザヤ書35:1 新共同訳)

楽しみにしてきたことが実現すると嬉しいものです。先週そんな嬉しいことがありました。今年も百合の花がようやく咲いたのです。しばらく前からつぼみになっていたのですが、なかなか花が開きません。思わず、カッターで切れ目を入れてしまおうかとも思いましたが、花が自然に花開くときを待つことにしました。先週の金曜の朝、一つめの花が開くと、あとは次々に見事な花が咲きました。

コツコツと地道な努力を積み重ねて来た人が実力を発揮し始めるとき、「あの人の才能が開花した」と言われます。

百合の花も、私たち人間の努力も、すぐにきれいな花を咲かせるわけではありません。厳しい冬の季節を経て、春になって芽を出し、少しずつ成長して、ようやくこの時期に花開くのです。

美しい百合の花が咲くこの季節に、花が開くまでの目立たない時間の大切さを心に留めたいと思います。その下積みの時間があってこそ、美しい花が開くのですから。

 偉人の到達した高さは20160618花開く

 一足飛びに達し得たものではない

 かれらは、仲間が眠っている間に

 ほねおって夜道を登っていったのだ

 足の下にいろいろなことを踏まえ

 良いものや益になるものを習得し

 高慢をしりぞけ、欲望を殺し

 刻々に立ち現れる悪を征服して

 われわれは立ち上がるのだ

 その場かぎりで現れては消える

 日々のできごとやすべての平凡な事がらや

 歓喜や不満など

 それはすべて上へ登る階段なのだ

(エレン・ホワイト『教育』より)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

むなしく天に戻ることはない

今年も梅雨の季節になりました。人間とは贅沢なもので、雨が続けば「いいかげん晴れて欲しい、、、。」とつぶやき、真夏のような太陽の日差しがやってくると「そろそろお湿りが欲しい」とこぼします。

先日ニュースで報じられていましたが、今年は記録的な少雪と5月が少雨だったために、水源地のダムの貯水量が例年よりもかなり少なく、取水制限が実施されることが検討されているということです。

雨や雪が続くと「勘弁してほしいなあ~」と愚痴をこぼしていましたが、あの雨や雪が私たちの生活を支える命の水になっているのです。

このニュースを見ながら、自分に必要なものが与えられているのに、それを感謝することもせず、つぶやいてしまうようなことが他にもなかっただろうか?と考えさせられました。

「なぜこんな試練に遭わなければならないのか」

「こんな経験に何の意味があるのか」…等など。

そんな気持ちにさせられる辛い出来事にも、後にならなければ分からない大切な意味や、神様のご計画が隠されているのかもしれません。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。

天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

(旧約聖書 イザヤ55:8~11 新共同訳)

容赦なく降り続く雨や雪のような試練も、決して無駄になることがないばかりか、私たちの人生に潤いを与え、実りをもたらす恵みになるのだという神様の約束です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、片倉城跡公園の菖蒲田です。数週間前よりも花が開きました。

走りつくす

息子の中学校の体育デー(運動会)に行ってきました。中学生が力いっぱい走って競い合い、心から喜び、20160604走りつくすまた涙を流す姿はとても感動的でした。

聖書の中に「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ」(伝道の書9:10)という言葉がありますが、力を尽くして何かに取り組む姿は人の心を動かす力があります。高校野球が人々の心を引き付ける理由も同じ理由ではないでしょうか。

伝道者パウロは、様々な教会に書き送った手紙の中で「走る」と言う言葉をしばしば使っています。

  • 「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」(コリント人への第一の手紙9:26)
  • 「あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。」(ガラテヤ人への手紙5:7)
  • 「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」(ピリピ人への手紙2:16)
  • 「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ人への手紙3:14)

これらの「走る」という言葉は、いずれも私たちの生き方・目的地に向かって進んでいく姿勢をあらわしています。

「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(テモテへの第二の手紙4:7)

人生の最後に、自らの一生を振り返ってこう言える人は本当に幸せな人ではないでしょうか。人との比較ではなく、自分が神様から与えられた道のりを最後まで走り抜いた!と心から喜んで言うことが出来る、そんな生き方をしたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は北浦三育中学校体育デーの様子です(撮影:渡辺孝行)。

※引用聖句はすべて口語訳より。

目からうろこが落ちる体験

今週、ある聖書研究の集まりで「目からうろこが落ちた」体験について考えました。

皆さんそれぞれにご自身の体験を語って下さいました。お話しを聞きながら感じたのは、「目からうろこが落ちる」体験というのは、辛い体験が多いのではないか、ということでした。それまで自分が正しいと信じてきたものが実は間違っていたことに気づかされたり、自分の間違いを正されたりすることは、誰にとっても辛いことです。この「目からうろこが落ちる」と言う言葉は、聖書の言葉が元になっています。

そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

(新約聖書 使徒行伝9:17~19 口語訳)

 

サウロ(のちの伝道者パウロ)にとってイエス・キリストとの出会いは、自分の価値観を根底から覆される体験でした。自分が大切にしてきたものを否定して、新しいものを受け入れるのは、勇気のいることだったに違いありません。しかし彼は、後に自身の体験を次のように語っています。KC4I0063

しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。

(新約聖書 ピリピ人への手紙3:7,8 口語訳)

イエス・キリストと出会うということは、「目からうろこが落ちる」体験をすることです。これまで大切にしてきたものが、どうでもよくなってしまうほどに素晴らしいものと出会うことが出来るのです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は片倉城跡公園の菖蒲田です。

 

義に飢え渇く人の幸い

もっと自分に恥じぬ生き方をしたいのに、同じような失敗を繰り返し、自己嫌悪に陥ってしまうことがありませんか?

キリスト教主義の高校で、学校付き牧師をしていたときのことです。多くのの生徒と出会い、楽しい思い出もたくさん出来ましたが、自分の悩みと正面から向き合っていた生徒たちの姿が、今も心に強く焼き付いています。

今、自分がすべきことは希望する進路に進むため、毎日コツコツと努力を重ねることだと自分が一番分かっているはずなのに、ついつい悪ふざけをして、学校生活を続けることが出来なくなってしまい、悔し涙を流していた生徒。

両親が必死に働いて自分を学校に送ってくれているのに、目標を見失ってしまい、両親の期待に応えることが出来ずにいる自分を許せなくて、苦しんでいた生徒。

今の自分の状態を何とかして改めたいと、必死にもがきながらも、なかなか古い自分から抜け出すことが出来ずに、もがく生徒たちの姿を見るのは辛いことでしたが、自分の弱さと真剣に格闘している彼らの姿はかけがえのないほどに尊く、神聖なものに感じられました。

イエス・キリストが「山上の説教」の中で語られた言葉は逆説的で、一見すると理解しがたく思えるのですが、悩み苦しみ、悔し涙を流す生徒たちの姿を見たときに、この言葉の意味が少し分かったような気がしました。

義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

(新約聖書 マタイによる福音書5:6 新共同訳)

自分の内に「義」がないことを知り、「飢え渇き」をもってそれを探し求める人を「幸いだ」とイエス・キリストは言われました。「苦しみながらも、あなたが諦めずに求め続けるならば、あなたは必ず満たされる」という約束です。悩み苦しんでいたかつての生徒たちが成長して、自分の道を立派に歩んでいる様子を伝え聞くとき、心励まされる思いがします。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160521義に飢え渇く人の幸い

※写真は府中郷土の森公園です。