みことば配布プロジェクト

兼務している八王子教会では、この4月から「みことば配布プロジェクト」を始めました。これは教会員の皆さんが思い思いの聖書の言葉をカードに書き、それを「神様、今日この聖書の言葉を必要としている方と出会わせてください。」という祈りを込めて道行く人たちに手渡す、という活動です(甲府でも同様の活動をしてみたいと思っています)。

「そんなことをしても効果がないのではないか」「ポケットティッシュだってなかなか受け取らないのに、カードを受け取る人がどれほどいるのか」…などなど、心の中に疑念が湧かなかったわけではありません。この活動は、3月に行われた青年部の行事の「街を行き交うたくさんの人たちに、自分に出来ることをやってみよう」というプログラムの中で、一人の高校生の提案から始まりました。正直言うと私も出て行って知らない人にカードを手渡しするのは不安でした。でも、自分たちが信じている神様の言葉を伝えるために出て行くとき、教会の中にとどまっていては出来ない体験をたくさんすることが出来ると実感しています。出て行くことが不安になるとき、次の聖書の言葉に心励まされています。

風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。…朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。20160514みことば配布プロジェクト

(旧約聖書コヘレトの言葉11:4,6 新共同訳)

街に出て行ってカードを配ることは出来なくても、ご自宅でカードに聖書の言葉を書いて持ち寄って下さった方々もおられます。集められた様々な筆跡の手書きのカードを見て、色々な方の思い・信仰・祈りがこうして集められているのだと感じ、嬉しくなりました。

この一枚のカードが、受け取って下さったどなたかの心の中で実を結ぶことを祈りつつ、種を蒔き続けたいと思っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

岩の上に家を建てる人

以前働いていた小学校の同窓会に出席させていただきました。十数年ぶりに会ったかつての小学生たちは、当時の面影を残した笑顔と、しかしそれぞれに立派に成長した頼もしい姿を見せてくれました。一緒に働いていた先生方、教え子たち、保護者の方々も集まって思い出話に花を咲かせたり、お互いの近況報告を聞いたりと、楽しく有意義な時間を過ごすことができました。

小学生だった当時と一見変わらないかのように見える笑顔の裏には、人知れず流した涙や、その場では語ることのできないような苦労があったことでしょう。今も苦しみの渦中にある、という人もいたかもしれません。小学生だった彼らと一緒に学んだイエス様のたとえ話を、もう一度みんなで一緒に読みました。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

(新約聖書 マタイによる福音書7:24~27 新共同訳)

どんな土台の家も、平時にはその違いは分かりません。しかし大雨が降り、土台が揺さぶられるような事態が起きたときに、両者の違いがはっきりするのだとこのたとえ話は教えています。

神様を信じているからと言って、苦しみに遭わない訳ではありません。しかし、人生の荒波の中にあっても揺らぐことのない、確かな土台が何であるかを知っている人は幸いです。

同窓会で再会した一人一人が、「岩の上に家を建てる」人生を歩んで欲しい、と祈るとともに、自分自身が何を土台として生きているのか、もう一度考えさせられる機会となりました。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20160507岩の上に家を建てる人

本気で向き合ってくれた先生

私が小学校6年生の時の担任は、とても厳しい先生でした。こっぴどく叱られたことが数えきれないほどありました。3年生のときに転校してきて卒業までの4年間の内、2年間はこの先生が担任でした。

毎朝の朝の会の時には、教室に「ピリッ」とした空気が漂います。しかし先生は、ただ厳しいだけではなく、遊ぶ時には児童と一緒に思いっきり遊び、楽しい思い出もたくさんできました。

さて、卒業式当日のことです。いつものように張りつめた空気で朝の会が始まりました。先生からの最後の言葉を、みんないつもよりさらに真剣に耳を傾けました。一通りお話しが終わった後、「おれもお前たちと一緒に卒業したいよ…。」と言って先生が男泣きに泣きながら、私たちとの別れを惜しんでくださいました。

あれから30年以上過ぎましたが、私たちの卒業にあたって先生が流された涙を忘れることができません。卒業後何年かたって、高校生の時、友だちと一緒にこの先生を訪ねると、「今日は職員室の他の先生たちに『これから教え子たちが遊びに来るんだよ』って思いっきり自慢してきたよ」と嬉しそうに話してくださいました。

人が「自分は愛されている」と感じるのはどんな場面でしょうか?

やさしくされたり、何か高価なものをもらったときにそう感じるだけでなく、厳しくも本気で向き合ってもらうときに感じられる愛があるのだと、この先生を思い出すときに強く感じます。

「本気の思い」は、確かに伝わっていくのです。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。

(新約聖書 ヨハネの第一の手紙3:16 新共同訳)

イエス・キリストは、これ以上ないくらい「本気」で、私たちを愛してくださったと聖書は教えています。私たちは今、イエス・キリストの「本気の思い」を感じ、受け取っているでしょうか。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20160430本気で向き合ってくれた先生

※写真は高尾山口から六号路登山口の間に咲くシャガの花です。

覚えられていた祈り

あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。

(新約聖書 使徒言行録10:4 新共同訳)

先日、嬉しいことがありました。しばらく連絡を取ることが出来なかった知人と再会することが出来たのです。「どうしているかなあ、元気にしているかなあ…。」

その方のことがずっと気になりながら祈っていました。しかし、2年ほど連絡もつかず、会うこともなかったので、いつしか「この祈りを神様は聞いておられるのだろうか?祈っていても状況は変わらないかもしれない。会えないのだから、状況が変わってもそれを知ることも出来ないじゃないか」と、祈り続けることを諦めてしまっていました。

そんなときに、ふとしたことからその方と再会することが出来たのです。しかも、2年前に会ったときよりも元気そうで「あなたのことをずっとお祈りしていましたよ」と言われるのです。

祈ることを諦めていた自分が恥ずかしく、申し訳ない気持ちになりました。神様は私の細々とした祈りを覚え、応えて下さったのです。状況がどうであったとしても、私たちの小さな祈りを確かに聞き、覚えてくださるお方がいる。そのことを心に刻み、祈り続ける者でありたいと強く思いました。

いま、九州地方で起きた大地震で、多くの方が傷つき、不安と悲しみの中で不自由な生活を余儀なくされています。「こんな大災害の中で、自分がささげる祈りに何の意味があるのだろうか?」「祈ったところで状況が少しでも好転するのだろうか…。」そんな疑念が胸に湧いてくるかもしれません。しかし、私たちには祈りを聞き、覚えて下さるお方がいるということをもう一度心に刻みたいと思います。そして、今も大きな困難の中にある方々を覚え、心を込めて祈り、またそれぞれが出来ることに取り組もうではありませんか。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160423あなたの祈りと施しは

※写真は高尾山の新緑です。

強さと明るさの秘密

Mさんはいくつかの持病に加えて足の骨を骨折して入院中でした。そんなMさんの病院に初めてのお見舞いに行くとき、いったい自分はこの方に何と言葉をかけたらよいのだろうかと不安な気持ちになりました。

しかし、私のそんな心配をよそに、Mさんはいつも変わらぬ笑顔で迎えて下さいました。Mさんの周りにはいつも明るい光が射しているかのような、あたたかい空気が漂っていました。

「こんな苦しみの中にありながら、何がこの方をこんなにも強く明るくさせているのだろう?」と不思議になるくらいでした。

ある日、Mさんの病室を訪ねると、いつものMさんとは違って表情が暗く、ふさぎこんでいる様子でした。しばらく病室に滞在して、帰ろうとすると「聖書の言葉を紙に書いてください。私にも読めるような大きな字でお願いします。」と言われました。

一緒にお見舞いに行っていた指導牧師の先生がきれいな大きな字で聖書の言葉を紙に書いてMさんに渡しました。Mさんは、宝物を受け取ったように、その紙をしっかり握りしめ、何度も何度もそこに書かれている聖書の言葉を読み返し、自分の心に刻みつけているようでした。

そのMさんの姿に、「何がこの方をこんなに強く明るくさせているのか?」という疑問のヒントを見せられたような気がしました。

あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。

(旧約聖書 エレミヤ15:16 新共同訳)20160416強さと明るさの秘密

苦しみの最中にあるとき、私たちは必死に神様にすがります。しかし、その苦しみが通り過ぎると、いつの間にか神様を求める気持ちも薄まってしまうことがないでしょうか?平穏無事に過ごす中で神様の必要を忘れてしまう状態よりも、病の苦しみの中で「むさぼり食べるように」神様の言葉を求めている状態の方が、神様に近く、人として本来あるべき姿なのではないか?Mさんは、その生き方を通して教えて下さいました。

 

※写真は片倉城跡公園の新緑です。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋