腕をつかんでくれた人

神学科2年生の冬に牧会実習(牧師になるための教会での実習)に参加しました。6週間という短い期間でしたが、多くの出会いがありました。毎週月曜日に指導牧師と一緒に参加していた聖書の学びの会の最後の日、ある教会員の方から「卒業後は牧師になるんですか?」と聞かれました。「いやあ…ぼくには無理だと思います」と私。するとその方は、私の腕をつかんでこう言いました。「あなたがどんなに逃げようとしたって、神様はあなたを決して離さないから覚悟していてください!あのヨナがそうだったように。」

思いがけない強い言葉に驚きました。そしてさらにビックリしたのは、自分の目から涙がこぼれ落ちて来てしばらく止まらなかったことです。

もしもゆるされるのなら、自分も牧師として働きたい。そう願いながらも、強い劣等感のゆえになかなか一歩踏み出すことができずにいた私にとってこの言葉は、「どんなに逃げようとしても私はあなたを離さないよ。」と神様から言われたように感じられ、胸が熱くなりました。

「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。」

(旧約聖書ヨナ書1:3 新共同訳)

ヨナだけでなく、私たちも時に神様の導きから逃げ出したくなる弱さを持っています。

今週から不定期で「私が出会った人たち」というテーマで書いてみようと思います。出会いは人生を変えます。そんな尊い出会いが、まるで隠された宝のように私たちのありふれた日常の中にちりばめられています。逃げようとする弱い私を、素晴らしい出会いを通して導き、支えてくださる神様を心から讃美します。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋20160305腕をつかんでくれた人

人それぞれに歩幅あり

先日、高尾山登山をしたときのことです。麓から自分のペースで歩き始めてしばらく行くと、前の方に若い人たちのグループがいるのが見えました。初めはあまり気にしていなかったのですが、距離が縮まって来たので「追い越そう」と思い、少し早足になりました。一つのグループを追い越すと、追い越した人たちに抜き返されるのも恥ずかしく思えてさらにペースが上がります。いつの間にかすっかり自分のペースを見失い、人よりも早く歩くことばかりに気持ちが向いてしまいました。

私のような気持ちで山を歩く人へのメッセージでしょうか。高尾山の登山口にはこんな言葉が書かれています。 20160227人それぞれに歩幅あり①

「人それぞれに歩幅あり 何事も焦らずに 高尾山」

山歩きだけでなく、人生の歩き方にも当てはまる言葉だなあと感じました。私たちは他人と自分を比較する癖がなかなか抜けません。よせばいいのに、人と自分を比べては落ち込み、またあるときには思い上がったりします。どちらも幸福な状態ではありません。

洗礼者ヨハネは、イエス様の先駆けとして大切な役割を果たした人物でした。彼のもとから人々が去り、イエス様の方に集まっていくのを危惧した弟子たちに彼が語った言葉です。

「天の神様が、一人一人にそれぞれの役割を決めてくださる。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書3:27 リビングバイブル)

自分の歩幅で、自分に与えられた役割を果たしていく。それは、人との比較や戦いではなく、自分自身との戦いです。いま、あなたに与えられている役割は何でしょうか?

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160227人それぞれに歩幅あり②

 

種を蒔け

 

今週、2人の方の葬儀に出席する機会がありました。葬儀には、故人の生きてこられた歩みが凝縮されていると常々感じています。私は故人の人生の歩みのすべてを知っているわけでは決してありません。しかし、そこに集まった人たちの言葉や思い、流される涙、そして長年の歩みの中で刻まれてきた年輪のようなものが、その方の命の重みとして伝わってくるのを、葬儀に出席する度に感じます。

「一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」(ジェラール・シャンドリ)

これは、クリスチャン作家の故・三浦綾子さんが、その作品『続・氷点』の中で紹介している言葉です。「集めたものではなく、与えたものこそが残る」とは、実に考えさせられる、人生の真実を切り取った言葉であると思います。

葬儀に出席する度に、この言葉が心の中に思い出されます。故人が遺されたものを自分は受け取っただろうか?そして、自分は「集めること」より「与えること」に、心を用いて生きているだろうか?と考えさせられます。

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。

(旧約聖書 コヘレトの言葉11:6 新共同訳)

聖書は私たちに「種を蒔け」と語りかけています。あなたは今、どんな種を蒔いて生きておられるでしょうか?

大切な方としばしのお別れをされたご遺族の上に、イエス様からの慰めと平安が豊かに注がれますように、心よりお祈りいたします。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160220種を蒔け

※早春の海。茨城県日立市小貝浜で。(撮影:伊藤穣)

べスパーの報告

今日はしばらくぶりのべスパーでした。明日の安息日プログラムのため、一緒に東京から来てくれた青年たちも参加してくれて、より一層楽しいべスパーになりました。

それぞれの1週間あったことを分かち合い、聖書の言葉を学び、その後、おいしい夕食をいただきました。

写真を撮り忘れましたが、今夜のメニューは、野菜たっぷりの煮込みうどんでした。とてもおいしかったです!身も心もあたたまりました。

20160212べスパー

石を投げる資格

姦通の現場に踏み込まれ、捕えられた女性がイエス様のところに引きずり出されました。人々はイエス様を訴える口実を得ようとして、「律法ではこのような女は石で打ち殺せと言われているが、あなたはどう考えますか?」と迫りました。

誰かの隠されていた悪事や不祥事が白日のもとにさらされるとき、私たちは自分自身を裁判官であるかのように思い込み、その人を非難・攻撃します。2000年前のユダヤの人々も、現在の私たちも、人間の本質は変わらないのだと強く感じます。

イエス様はそんな彼らにこうお答えになりました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

(新約聖書 ヨハネによる福音書8:7 新共同訳)

そのとき、イエス様は地面に何かを書いておられました(エレン・ホワイトは、訴えてきた人々の隠された罪をそこに書いておられた、と述べています)。訳知り顔で誰かを断罪し、非難するとき、私たちは自分の犯してきた罪を忘れています。しかし自分自身も人知れず罪を犯し、過ちを繰り返してきたことを思い返すとき、自分には誰かに石を投げる資格はないのだという事実を突きつけられるのです。

誰かに対して、思わず石を握りしめてしまうようなとき、先のイエス様の言葉を思い出し、「私のこの手は、誰かに石を投げるためにあるのか?それとももっと他のことをするためにあるのか?」と、考えてみたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20160213石を投げる資格

※雪の朝。八王子市つどいの森公園で。