苦悩の谷が希望の門へ

それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与え/アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

(旧約聖書 ホセア2:16,17 新共同訳)


 

今週、聖書を読んでいて出会った言葉です。以前にも読んで励まされていたのでしょうか、赤い線が引いてありました。改めてこの聖句が心の中にスッと入ってきました。

神様が私たちを人生の「荒れ野」へと導かれることがあります。病や苦しみ、先の見えない困難の中で、どんなに必死に祈っても答えが与えられず、行く先に希望を見いだせないときがあります。しかし、そこがいかに厳しい場所であっても、神様が導かれた場所であるならば、「アコル(苦悩)の谷が希望の門へ」変えられるのだと聖書は約束しています。

20151212苦悩の谷が希望の門へ私たちには、「荒れ野」に引きずり出されなければ気づくことの出来ない自分の弱さや醜さがあります。しかしその場所で自分の本当の姿に気づき、その中で神様の恵みに触れるとき、苦悩が希望に変えられるのだとしたら、「荒れ野」こそが神様の愛が私たちに注がれる場所なのかも知れません。

今年も残すところ3週間足らずとなりました。2015年は皆さまにとってどんな1年だったでしょうか。良かったことよりも、苦しかったこと・今も解決していない問題ばかりが思い出されるような1年を過ごさざるを得なかったという方もおられるかもしれません。それぞれの「苦悩の谷」が、「希望の門」であることを、私たちが信仰によって体験することができますように。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は高尾山口の風景です。

それは、あなたが言っていることです

先週の記事で、目の前の困難があまりに大きいとき、私たちは自分で自分を弱くちっぽけな存在に思いこんでしまうことがあるのではないか?というようなことを書きました。セルフイメージが低くなるということは、本当に苦しいことです。

私たちのセルフイメージを低くするものが他にもあります。それは周りからの攻撃です。「お前はだめな人間だ」と周りから言われ続けていると、やがてはその声が自分自身の声になってしまい、「自分はだめな人間だ」という思いにとらわれてしまうのです。

イエス様は十字架につけられる前、大祭司や総督ピラトから厳しい尋問を受けました。偽りの証人が立てられ、不利な証言が寄せられましたが、イエス様はそれらの声に屈することはありませんでした。


さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。

(新約聖書 マタイによる福音書27:11 新共同訳)


 

「それは、あなたが言っていることです」(注:口語訳は「そのとおりである」と訳しているが、新共同訳がより原意に近い)という言葉は、中傷や非難の声にどのように向き合うべきかを身をもって示されたイエス様の教えのように私には思えます。

どんなにひどいことを言われたとしても、穏やかな気持ちで「それは、あなたが言っていることです」と静かに答えることが出来るようになりたいな、と思います。相手を憎むのでも、自分を卑下するのでもなく。聖書は、神様が私たち人間にどれほどの価値を認められたかをはっきり教えています。 20151205それは、あなたが言っていることです

わたしの目には、あなたは高価で尊い。

わたしはあなたを愛している。

(旧約聖書 イザヤ43:4 新改訳)

 

 

※写真は晩秋の妙高山です(2011年11月撮影)。

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

クリスマスコンサートのお知らせ

2015年も早いもので、12月を迎えようとしております。甲府キリスト教会では以下の通り、今年もクリスマスコンサートを計画しました。

12月5日(土)13時~:人形劇と男性コーテットによる讃美・証し

12日(土)13時~:鍵盤ハーモニカ・リコーダーによるクリスマス音楽とメッセージ

大学生・青年たちによるプログラムです。詳しくはポスターを御覧ください。いずれも入場無料です。皆さまのお越しを心よりお待ちしております。2015甲府クリスマス

いなごのように思われ…。

イスラエルの民が奴隷状態だったエジプトを出て、荒れ野を旅して目的地であるカナンの地を前にしたとき、斥候として12人が選ばれました。彼らは民に先だってカナンの地を偵察し、報告するために派遣されました。偵察から戻った彼らの報告は次のようなものでした。

「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。…わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません。」(旧約聖書 民数記13:32,33 口語訳)

そこに背の高い人々が生活していたというのは事実でしょう。しかし彼らが、そこに住む人々から「おまえたちはいなごのようなちっぽけな人間だ」と思われていた、というのは斥候たちの悲観的な思い込みでした。私たちも目の前にある困難ばかりに目が行ってしまうとき、彼らと同じように「自分をいなごのように思い」「彼らにもそう見えたに違いない」と、否定的な考えに心が支配されてしまうことがないでしょうか。

斥候の中の一人、カレブの言葉は、時として歪んだセルフイメージに縛られてしまうわたしたちに強く訴えかけてきます。20151128いなごのように思われ…。

「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れる地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。」(同 14:7~9)

あなたはどちらの声に耳を傾けるでしょうか?

 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

それぞれの色

20151121それぞれの色甲州街道のイチョウ並木が色づいてきました。八王子に住むようになって気づいたのですが、この時期のイチョウ並木は、同じように植えられた木でも、よく見ると一本一本黄葉の度合いが違います。隣り同士の木でも全然葉の色が違うのです。並木全体が黄色に染まる黄葉の最盛期もきれいですが、個人的には葉の色が不揃いの今の時期のイチョウ並木が好きです。

グループで聖書を読んでいると、同じ聖書箇所を読んでいるのにメンバーそれぞれに心に残る部分や理解の仕方が違うということがよくあります。自分一人で聖書を読んでいても絶対に気付けなかったような気づきが、他の人の感想から与えられることが少なくないのです。グループで聖書を読むことの醍醐味だなあと感じます。

イエス様は「あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」(新約聖書 ルカによる福音書12:57 口語訳)と人々に言われました。「聞く耳のある者は聞くがよい」もイエス様が繰り返し言われた言葉です。これらの言葉はいずれも「自分の耳で聞き、自分の心で感じ、判断すること」の大切さを私達に教えているように思われます。

自然の美しさが多様性によってあらわされているように、私たち一人一人も神様によってそれぞれが異なる個性を持つ者として造られました。それぞれの感じ方、それぞれの色を大切に、いつも命の源である神様につながって葉を茂らせたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋