主よ、あなたはすべてを知っておられる

今週は健康診断に行ってきました。少し大げさかもしれませんが、健康診断は良くも悪くも「1年間の生活習慣の集大成」のようなものです。ドキドキしながら病院に向かいました。

一通り検査を終えて最後に保健師さんから検査結果の説明を受けました。「おめでとうございます!数値が改善されています。ただ、最近食生活が少し乱れましたか?」と言われ、思わず「え!?そんなことまで分かるんですか?」と聞き返してしまいました(思い当たる節がありました)。

私にとって健康診断は、年に一度のドキドキさせられる日ですが、健康を維持していく動機付けを保つ上で、とても大切な機会になっています。


 

主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。 

(旧約聖書 詩編139:1~5 新共同訳)


 

DSCF1679健康診断の検査で、自分でも気づいていないような体の状態が明らかにされるように、神様の目には私たちのすべてがあらわです。「自分のすべてが知られている」と考えると、不安や恐れを感じます。しかし、神様は私たちのすべてを知った上で、なおかつ私たちを愛することを選んでくださったのです。人から誤解され、悔しい思いをすることがあるかもしれません。そんなときにも神様に知られ、そして愛されていることに心の平安を見いだしたいものです。

 

※写真は昨年参加した「八ヶ岳・棒道ウォーク」の様子です。自然の中を歩くと身も心もリフレッシュさせられます。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

しっかりと根を張って生きる

20151107しっかりと根を張って生きる②プランターの花を植え替えました。日々草やサルビア、マリーゴールドなど、夏の花がまだ咲いていたので植え替えを躊躇する思いもあったのですが、園芸の先輩である父に相談したところ、次のようなアドバイスをもらいました。

「冬の花の苗は早めに植えたほうが、厳しい寒さが来る前にしっかりと根が育つから、寒さにも強くなる。」

それまでは「夏の花がまだ咲いているからもったいない」「できるだけ夏の花をもたせて、枯れたら植え替えよう」と考えていたのですが、父のアドバイスによって考えを改めることが出来ました。

植物の根の部分は、通常人目につくことはほとんどありません。しかし、根が健康に育っていなければきれいな花を咲かせることも、冬の厳しい寒さに耐えることも出来ません。ふだん目につく部分だけが大事なのではなく、目には見えない部分こそが肝心なのです。

イエス様は「種まきの譬え」の中で、次のように言われました。


 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

(新約聖書 マタイによる福音書13:20,21 新共同訳)


 

「根がないので、すぐにつまずいてしまう」…実に考えさせられる言葉です。

しっかりと根を張った植物は、冬の寒さで土が凍っても、枯れることなく元気に花を咲かせます。そんな花のようにしっかりと根を張って生きることができるように、わたしも神様の言葉によって心を養っていきたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

収穫の季節に

田舎育ちのせいでしょうか。私は田んぼの風景が好きです。一面に水をたたえた田植え直後の田んぼ。真夏の生命力にあふれる緑色に染まった田んぼ。収穫間近の豊かに実った稲が並ぶ秋の田んぼ…。季節20151031収穫の季節にによって様々な表情を楽しませてくれる田んぼの風景が好きです。

先日、実家の近くを散歩していると、収穫を終えた田んぼの風景が広がっていました。今年のすべての働きを終えた田んぼに「今年もお疲れさまでした」と声をかけたくなりました。

今年もスーパーの店頭に新米が並ぶ季節になりました。お金を払えば当たり前のように美味しいお米を手に入れることが出来るわけですが、春に植えられた稲が、害虫や水害・日照りや台風から守られて収穫に至るには、並々ならぬ生産者の皆さんの苦労や祈りがあってのことなのだと、秋の田んぼを眺めながら改めて考えさせられました。

今年の11月は、「全日本15バプテスマ月間」ということで、全国の多くの教会でバプテスマ式が予定されています。丹精込めた多くの働きと自然の恵みがあって農作物が収穫に至るように、一人の人がイエス様と出会い、イエス様を受け入れる決心をするには、どれほど多くの熱い祈りと、聖霊の神様の働きがあったことでしょう。


 

しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。

(新約聖書 ヨハネによる福音書4:35,36 口語訳)


 

 

 

収穫のために働き、祈り、共に喜ぶ者となりたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう

東京近郊の数名の牧師で北浦三育中学校を訪問しました。一泊二日の限られた時間でしたが、礼拝や授業を担当したり、生徒や先生方、一緒に訪問した牧師たち、日ごろなかなか話す機会のない人たちと交わり、有意義な時間を過ごすことが出来ました。

お互いの働きの喜びや苦労、抱えている重荷を分かち合う時間を過ごしたことで、自然と「自分もまた思いを新たに頑張ろう!」という気持ちになりました。

人の話を聞いたり、自分の話を人に聞いてもらったりしても、自分の前に立ちはだかっている問題の大きさ自体は変わりません。しかし、「自分だけが苦労しているんじゃない」「自分のことを理解して応援してくれる人がいる」「自分は一人じゃないんだ」という事実に気付くことで、もう一度立ち上がる元気をもらえるんだなあと感じました。


 

神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

(旧約聖書 創世記2:18 新改訳)


 

20151024わたしは彼のためにこれはアダムに妻エバを与えようとして言われた神様の言葉です。私たち人間が一人では生きられない、助け手を必要とする存在であるということは、結婚生活だけに限定されることのない人間の現実です。

神様が、そんな私のためにふさわしい助け手を備えていてくださる。行き詰まりや不安の中にある私たちへの聖書の約束です。家族や友人、職場や教会の仲間など、私たちはたくさんの人の中で生かされています。その中で自分に与えられている助け手に感謝し、自分もまた、誰かの助け手としての役割を果たしていきたいものです。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

すべての民の祈りの家と呼ばれる

以前働いていた教会でのことです。その教会は公立中学校に隣接した場所に建っていましたので、校舎からはいつも元気な中学生の声が聞こえてきていました。ある日、教会の呼び鈴が鳴ったので急いで玄関に行くと、一人の中学生が立っていました。「礼拝堂でお祈りをさせてもらってもいいですか?」と言うので早速礼拝堂に案内すると、彼はそこに座って一生懸命に祈り始めました。お祈りが終わって帰るとき「何かあったの?」と声をかけると、「高校の受験が近づいて来たり、他にもいろいろ辛いことがあったのでお祈りしたい気持ちだったんです。」と話してくれました。その場所に教会が建っていること、そして中学生がその教会に祈るために来てくれたことがとても嬉しかったのを覚えています。

教会は、いつもそこに集まって来るクリスチャンだけの建物ではありません。イエス様は言われました。


「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

(新約聖書 マルコによる福音書11:17 新改訳)


20151017すべての民の祈りの家と呼ばれる教会という場所が、教会員だけでなく、ご近所に住む人やそこを通りかかった人たち、日ごろなかなか教会に来る機会のない人たちにとっても、何かがあったとき(あるいは何もなくても)そこに足を運び、神様に祈り、心を静められる場所であったら何と素晴らしいことでしょうか。教会が「すべての民の祈りの家と呼ばれる」場所へと成長していくように願っています。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋