今週は健康診断に行ってきました。少し大げさかもしれませんが、健康診断は良くも悪くも「1年間の生活習慣の集大成」のようなものです。ドキドキしながら病院に向かいました。
一通り検査を終えて最後に保健師さんから検査結果の説明を受けました。「おめでとうございます!数値が改善されています。ただ、最近食生活が少し乱れましたか?」と言われ、思わず「え!?そんなことまで分かるんですか?」と聞き返してしまいました(思い当たる節がありました)。
私にとって健康診断は、年に一度のドキドキさせられる日ですが、健康を維持していく動機付けを保つ上で、とても大切な機会になっています。
主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
(旧約聖書 詩編139:1~5 新共同訳)
健康診断の検査で、自分でも気づいていないような体の状態が明らかにされるように、神様の目には私たちのすべてがあらわです。「自分のすべてが知られている」と考えると、不安や恐れを感じます。しかし、神様は私たちのすべてを知った上で、なおかつ私たちを愛することを選んでくださったのです。人から誤解され、悔しい思いをすることがあるかもしれません。そんなときにも神様に知られ、そして愛されていることに心の平安を見いだしたいものです。
※写真は昨年参加した「八ヶ岳・棒道ウォーク」の様子です。自然の中を歩くと身も心もリフレッシュさせられます。
セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋


によって様々な表情を楽しませてくれる田んぼの風景が好きです。
これはアダムに妻エバを与えようとして言われた神様の言葉です。私たち人間が一人では生きられない、助け手を必要とする存在であるということは、結婚生活だけに限定されることのない人間の現実です。
教会という場所が、教会員だけでなく、ご近所に住む人やそこを通りかかった人たち、日ごろなかなか教会に来る機会のない人たちにとっても、何かがあったとき(あるいは何もなくても)そこに足を運び、神様に祈り、心を静められる場所であったら何と素晴らしいことでしょうか。教会が「すべての民の祈りの家と呼ばれる」場所へと成長していくように願っています。