キリストの香り

20150919キリストの香り今週「秋だなあ!」と感じる瞬間がありました。散歩をしていると、どこからともなく金木犀の匂いが漂って来ました。今年初の金木犀の匂いでした。金木犀は、秋になると木の姿を見るよりも先に、匂いでその存在が分かります。

「香り」というのは伝わっていくものです。今週読んだ本に次のような逸話が紹介されていました。

「ある牧師が駅で靴磨きをしてもらおうとしました。混み合っていたので、靴磨きのおじさんは、次から次と靴を一心に磨いていて、その靴をはいている人がどんな人なのか、見るいとまもありません。やっと順番が回って来て、磨き終えると、このおじさんがふと顔を上げて、次のように言ったというのです。『あなたの靴を磨いていると、不思議にいつまでも磨いていたくなります。さっさと終わりたいとか、磨きたくないという気持ちにさせるお客さんもいるんですが…』。

私はこのお話をきいて、非常におもしろいことだと思いました。人には、その人なりの雰囲気があって、漂っているということです。ちなみに、その人は、キリストの香りと呼ぶにふさわしい麗しさを備えたかたでした。」(工藤信夫『援助の心理学』84ページ)

私たちが声高に叫ぶものではなく、むしろ自然体のその人の雰囲気が周りの人に伝わっていくものなのかもしれません。福音書には、イエス様の周りに世間からつまはじきにされた人たちや、子どもたちが集まって来た様子が繰り返し記録されています。私たちもキリストの香りを放つ者とさせていただきたいですね。

「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 2:15 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

 

セールスマン

長男が生まれて間もない頃のことでした。教会の呼び鈴が鳴ったので急いで玄関に行くと、一人の男の人が立っていました。掃除機のセールスマンでした。我が家にももちろん掃除機はありましたので丁重にお断りしたのですが、なかなか帰ろうとしません。「話を聞くだけでも結構ですから!」と言うので、話だけならと中に入ってもらい説明を聞きました。

渋々彼の話を聞き始めてから、およそ1時間後…いま思い出して自分でもビックリなのですが、何と、ビックリするくらい高額なその掃除機を購入してしまったのです!

セールスマンのトークと情熱に圧倒されてしまったのを覚えています。彼曰く、自分もこの掃除機を自宅で使っている、彼自身、この掃除機に心底惚れ込んでいる、とのことでした。

今でもこの掃除機の魅力を熱く語っていたセールスマンのことを時々思い出します。そしてわが身を振り返るのです。果たして自分は、彼の商品への思いに負けないくらいの情熱を持って神様のことを伝えているだろうか?彼の気持ちに負けないくらい、自分が伝える神様のことを知り、神様の言葉に心底惚れ込んでいるだろうか?と…。

仕事だから人に勧めているけど、自分個人としてはそこまで惚れ込んでいない…そんな人から勧められる商品が、魅力あるものとして人々の心に伝わっていくでしょうか?

パウロは次のように言っています。


 

もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙9:16 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

セールスマン20150912

※湖の畔に咲くアザミの花(2011年9月23日 長野県信濃町野尻湖で撮影)

へりくだる

「本当の謙虚さを持っていたら、どんな教会に行っても大丈夫だよ」

自分は将来牧師としてやっていけるのだろうかと不安でたまらなかった私に、恩師の牧師がかけてくださった言葉です。

この言葉を聞いたとき、「自分は能力も経験も足りない。でも『謙虚でいられたら大丈夫』なのであれば、自分でもやっていけるかもしれない」と思い、ホッとしてしまったことを今も覚えています。何と傲慢だったことでしょう…。後に教会で働くようになってから、この先生の言葉の本当の意味を少しずつ理解するようになっていきました。「本当の謙虚さ」を持つことが、自分にとってどれほど難しいことか。様々な出来事や人とのかかわりの中で自分が「本当の謙虚さ」からどれほどかけ離れているかを思い知らされることが、今も続いています。

20150905へりくだる

「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあります。これは、稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になっていくものだということを教えた言葉です。しかし私たちは、歳を重ね、経験を積むごとに、自分の知識や経験にしがみつき、「謙虚」であることが難しくなってしまう側面を持っていないでしょうか。

 

聖書は次のように私たちに勧めています。


 

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

(新約聖書 フィリピの信徒への手紙2:5~8 新共同訳)

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※収穫を待つ稲穂(茨城県かすみがうら市で)。

夏の終わり

厳しい暑さの夏でしたが、今週は気温が下がり朝晩は肌寒く感じられるくらいでした。皆さま、体調を崩されたりしていないでしょうか。

2週間ほど前、連日の猛暑に苦しんでいた頃のことです。実家に帰省して近くの山道を散歩していると、足下に山栗が転がっているのが目に留まりました。栗のイガはまだ緑色でしたが、自然界は確実に次の季節に向かって歩を進めているのだな、秋はもうすぐそこまで来ているんだ!と嬉しい気持ちになりました。(私は暑さが苦手で、秋が好きなのですが、夏が好きな方にとっては「夏の終わり」は寂しい季節ですね。)

どんなに猛暑の年、残暑が厳しい年でも、真夏の暑さがいつまでも続くわけではありません。同じように、私たちが体験する厳しい試練の日も、いつまでも続く訳ではないことを覚えたいと思うのです。

必死に祈り続けているのに一向に祈りが聞かれない、なぜ神様は沈黙しておられるのか?私は神から見放されているのではないか…そう感じてしまうような深い苦しみの中にあっても、自然界の小さな変化に次の季節の到来の近いことを覚えるように、何か小さなこと当たり前の日常の中に神様からの慰めや励ましを見いだすことが出来るなら、こんなに幸いなことはないのではないでしょうか。


天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。…神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

(旧約聖書 伝道の書3:1,11 口語訳)


 

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

※写真は、朝の散歩コースから見える牧場の様子です。20150829夏の終わり

野の草でさえ

イエス様は言われました。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」

(新約聖書マタイによる福音書6:27 新共同訳)

「悩まないで生きていきたい」だれもがそう願いますが、実際にはわたしたちの生活、人生には悩みがたくさんあります。若者には若者の、そして高齢者には高齢者の悩みがあります。生きている限り、悩みは尽きないものなのかもしれません。

先の言葉に続けて、イエス様は次のように言われました。

「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」

(マタイによる福音書6:28~30)

人生の重荷にあえぐとき、その重荷が奇跡的に取り去られることはないかもしれません。しかし、途方に暮れて足元に目を落としたとき、そこに咲く一輪の花から目の前の現実を生き抜いていくヒントや立ち上がる力が与えられるのだとイエス様のこの言葉は教えてくれます。一輪の花に命を与え、美しく装ってくださる神様が、わたしの人生に何をしてくださるのか期待しつつ歩んでいきたいと思います。

セブンスデー・アドベンチスト甲府キリスト教会 牧師 伊藤 滋

20150822野の草でさえ①※写真①:実家の花壇に父が植えた花です。久しぶりの雨が降り、花も元気を取り戻したようです。

 

 

 

 

 

 

20150822野の草でさえ②

 

※写真②:北アルプス燕岳のコマクサです。種が落ちてから花が咲くまで13年もかかるそうです(撮影:小野寺法子)。