「居場所を失う」

虐待されている同胞を助けるため、人を殺めてしまったモーセさんでしたが、その出来事を通して自分が解放者であることを知ってもらえたであろうと確信しました。

 しかし、一時の感情的な行為によって、モーセさんの予想に反する同胞からの反応が待ち受けていました。

翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。

(聖書 出エジプト記 2:13-14 新共同訳)

 エジプトのトップが2日も続けて奴隷のもとに訪れること自体が、仲間意識の共有に繋がることでありました。

 しかし、同胞のヘブライ人が示した反応はモーセさんにとってあまりにもショックなものでした。

 解放者として認められなかっただけにとどまらず、命を奪う危険人物として扱われてしまったのでした。

 聖書の別の箇所にも同じ記述があります。

すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうととするのか。』(聖書 使徒言行録 7:27-28 新共同訳)

 暴力がもたらした結果はモーセさんにとって大きな痛手でした。何よりも、神様はそのような方法でイスラエルを解放しようとは考えておられませんでした。

 こうして居場所を失ってしまったモーセさんでしたが、神様はこの後モーセさんがエジプトの地からヘブライ人を解放するリーダーとしての働きをなす備えをするために、特別な環境を用意しておられました。

「理解されない」

エジプトでの高度な訓練を受けたモーセさんは、40歳という力や権力、そして気力に満ちている時期をむかえていました。

 そして、同胞を解放するという大きな使命に燃えていたモーセさんに転機がおとずれました。

モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。 (聖書 出エジプト記 2:11 新共同訳)

 重労働に加え、酷い扱いを受けているのを目撃したモーセさんは、自分の感情を抑えることができなくなりました。

 そして、訓練で培ってきた力をもってそのエジプト人に向かって行きました。

モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。(聖書 出エジプト記 2:12 新共同訳)

 同胞を酷い目にあわせているエジプト人に襲い掛かり、結果的に人を殺めてしまいました。

 勿論、エジプト側にこのことが知れれば問題になります。しかし、この時、現場にいたのは虐待されていた同胞だけでした。

感情的に手をだしてしまったことではありましたが、モーセさんにとってこの出来事は、自分がエジプト側の人間ではなくヘブライ人に味方する存在であるということを示す十分な証拠となったと思われました。

 しかし、そう簡単にはいきませんでした。

モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。

(聖書 使徒言行録 7:25 新共同訳)

 神様がモーセさんを用いて同胞をエジプトから救い出そうと計画しておられたことは間違いないことでした。しかし、囚われている側がそれを理解しない時、そこから救出することは困難を極めます。

 神様が私たちのためにしてくださることに対して、私たちが心を閉ざしてしまうがために理解できないことがあるかもしれません。

 常に心を開いて神様の計画を知ることができるように祈り求めていきたいですね。

「主は羊飼い」

皆様にとって2021年はどのような年だったでしょうか。昨年に引き続き様々なことを自粛しつつ、その中でもできることを模索しながらの1年だったことと思います。

 2022年がどのような1年になるのか、私たちにはわかりません。しかし、聖書には私たち1人1人を気にかけてくださり、正しい道を歩むことができるように導いてくださる羊飼いとしての神様の姿が記されています。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。(聖書 詩編 23:16 新共同訳)

 その神様がみ言葉をもって示してくださる道を、み言葉から力を頂きながら、み言葉の約束を信じて歩んでいきましょう。

 2022年も、皆様が神様への感謝を心に持ちながら、約束の御国を目指して歩んで行くことができますようにお祈り申し上げます。

「あなたがたのために」

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(聖書 ルカによる福音書 2:8-12 新共同訳)

 聖書に記されたイエス・キリストの誕生に関する記述で有名なものの一つが、羊飼いたちに起こった出来事です。

 救い主を心から待ち望んでいた彼らは、いつものように羊の番をしていました。そこに天使が現れて、驚くべきことを告げました。

 それが、「あなたがたが待ちに待った救い主がお生まれになった」という知らせでした。天使を見てしまったという恐れを感じた羊飼いたちでしたが、その喜ばしい知らせを聞き、彼らは行動を起こしました。

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

(ルカによる福音書 2:15 新共同訳)

知らせを聞いただけではなく、その救い主に会いたいと思った彼らは、天使のお告げを信じて一歩を踏み出しました。

そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(ルカによる福音書 2:16 新共同訳)

 クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念し、その出来事に目を向けるひと時を持ちます。

 神様は、この救い主の誕生という出来事に目を向ける私たちが、改めてこの喜ばしい出来事を通して希望の光を得るようにと望んでおられます。

 私たちも、羊飼いたちのように、イエス・キリストという私たちの救い主にお会いするための一歩を踏み出しましょう。

 私たちのためにこの地上に来てくださったイエス様は、私たちがご自分のもとに来るのを待っておられます。

「もう一つの教育」

生まれた時から命の危険にさらされていたモーセさんは、神様の導きによってファラオの王女に拾われ命を助けられました。更には、実母が乳母としての役割を任せられ、ある年齢に達するまでは家族と共に過ごすことができる道が開かれました。

 そこまでの出来事が、聖書の別の箇所にも記録されています。

それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。(聖書 使徒言行録 7:18-21 新共同訳)

 そして、いよいよ家族のもとを離れ、エジプトの中心地であるファラオの王女のもとへと生活の拠点を移すこととなりました。

 そこでの生活についても聖書に記録されています。

そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。(聖書 使徒言行録 7:22 新共同訳)

 実母のもとで信仰の教育を受けたモーセさんは、エジプトの中心地においてエジプトの王家の後継ぎとしての教育を受けることとなりました。

 モーセさんが受けた教育は、政治的なことや軍事的なことなど国のリーダーになるために重要な内容であり、高いレベルのものでした。

 しかし、その教育の中にはエジプト人の信仰する宗教に関するものも含まれていました。母から唯一の神様を礼拝することを教わってきたモーセさんにとって、エジプトの宗教を受け入れるということはできませんでした。

 本来ならば、エジプトの国を担う存在として赦されざることであったことと思います。しかし、モーセさんはそのような周囲の声やエジプトの教育を受ける中でも信仰にかたくたって歩んでいきました。

 そんな中、モーセさんはエジプトで苦しむ同胞を救い出すという使命を果たすために機会を伺っていました。